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2006年9月 アーカイブ

2006年9月 5日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.2

「では、その治療法を始めましょう。」


「はい、よろしくお願いします!」


僕は、その治療に対して何の迷いも無く漠然と”これで良くなる”という思い、いや、というかむしろ期待感を抱きながら治療椅子に腰を掛けていました。
この時の僕は、極めて依存性の高い楽観的な意識にあったように記憶しています。


現在、講演ビジネスにおける仕事をするようになり10年前に癌でお亡くなりになられた逸見政孝さんの奥様の※逸見晴恵さんとよくお仕事をさせていただくのですが、晴恵さんは政孝さんの癌闘病からお亡くなりになられるまでの軌跡と家族愛を主とした講演をなされるのですが、その経験から※セカンドオピニオンの重要性を強く訴えられています。
この時には僕はもちろんですが、まだまだそのような概念は一般的に浸透していなかったと思うのですが、この時に僕がセカンドオピニオンという概念を知っていたら、僕の行動なり今が変わっていたかもしれないと思うと”知っていると知らないでは大違い”とよく言いますが、人生において”知っていると知らない”とでは、その後において大なり小なり、よきにせよあしきにせよ岐路をもたらすものだと痛感しています。(この表現って知っている事がいいのか?そうでないのか?微妙ですが。。。でも、知らないよりは知っている方がいいに決まっていますよね。)

<三十の手習い>ではないですが、いくつになっても日々勉強。いや勉強はいくつになっても、どこでもできるものと今更ながら思います。(いやいや、思うものだけでなく実践もしていますよ)
人間は、世の中のほとんど(確か97%も。。。だったでしょうか?)を知ってはいないということを以前新聞で読んだ事がありますが、そう考えれば一生貪欲に勉強するべきだと。

ただ、何故に”その後において大なり小なり、よきにせよあしきにせよ”などという微妙な言い回しをしたかというと、知の蓄積は素晴らしいことですが知っているだけでは 人生だめ! という気がしてならないからです。
知っているとは知識にしか過ぎないもので、知恵や判断力や行動がともなって最大限活きるもの、生きていく上での人生にとっての重要な要素だと思うからです。
「三十の手習いの学問は、知恵や判断力や行動力が養われる学問でありたし」 そんな気持ちで勉強している昨今です。


ちなみに知の蓄積(知識)をインプットとすれば知恵や判断力や行動力は、さしずめアウトプットになるわけですが、この[インプットとアウトプット]人生とは。。。のタイトルにおいて重要なキーワードですので、是非念頭においておいて下さい。


話はだいぶそれましたが、もとに戻って、、、


極めて依存性の高い楽観的な意識にあった僕は、ただただ医師に身をゆだねる状態で、その治療は開始されました。


「グッチュ」


右耳の奥からそんな音が聞こえた瞬間、左脳が「痛い!」という言語を発する指令を間違えなくだしているのですが、「痛い!」という言葉が発声できない。。。
声がでない、、、「あー」そんな言葉をだそうとしてもでない。。。


人生で、かなり衝撃的な初めての経験でした。


逸見晴恵さん講演情報


※セカンドオピニオン
(第二の診断)。病気の理解を深めるために主治医以外の意見を聞いて情報収集すること。1.主治医の診断や方針に対する確認ができる 2.治療の妥当性を確認できる 3.主治医の示す治療法以外の治療法が得られる可能性がある 以上3点が効用として考えられる。


2006年9月 7日

コマーシャル

      人生とは。。。 の合間における株式会社ペルソン コマーシャルです。


今日、ペルソンメンバーから誕生日のお祝いをしてもらいました。
これはペルソン恒例で、メンバーの誕生日にささやかながらケーキとプレゼントが贈られるお楽しみ(小)会です。

200609071657000.jpg


僕は4年ほど前以前までは、自分の誕生日も人(大切な人も含め)の誕生日もさほどに重視していなかった人間なのですが、ある女性から「その年のその日にあなた(わたし)が生まれたから今の出会いがあるのよ。」といわれ、”その通り!”と感動して誕生日というものの尊さを実感しました。
それからは、誕生日を心から祝福し喜べるものという意識が持てるようになりました。


ちなみに9月はペルソンメンバー15名中9月1日、6日、9日(が僕です)、11日、30日と1/3の5名も誕生日がいます。
ちょっとビックリですが、これも何かの縁でしょうかね。


あれっ?9日なのに7日に誕生日?9日は土曜日だから8日の金曜日ならありかもしれないけど、何で7日の木曜日? 


かって、、、


大家族にある合同誕生日パーティーです。
これもファミリーチックでいいもんです。


みんな、ありがとう!!


天に軌道がある如く、人それぞれに運命を持って生まれ合わせております。
それぞれが、その年のその日に生まれたから今の出会いがある。
親に感謝、ご先祖様に感謝、あの人に感謝、友に感謝、そしてメンバーに感謝です。
本当にありがとうございます。

よっし!さぁー!みんな!これからもバシバッシガンガン仕事しましょうねー!!


「                     !」


「あっ、俺ね。すいません。。。がんばるよ!」


2006年9月12日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.3

声が出ない時間は5秒くらいだった、でしょうか。
30歳までの時間感覚で、もっとも5秒という時間が長く感じ、不安でパニクッタ瞬間でした。


「あー」 ”やっと声がでた。”
「先生!!今 右耳の奥でグチューという音が聞こえ、痛みを感じ、声がでなかったですよ!」
「んー何だろうね。今はどう?」
「今は痛みもなく、声もでますが。。。」
「で、あれば問題ないんじゃないかな。まぁ、様子見て何か問題があったらまた来なさい。」


そんな会話をしたことを今でも覚えています。


ちなみに、人生。。。三十路なりたて編 No.1、2もご覧頂いた方は、ここまでの経緯でその医師はどんな治療を施したのだろうか?
とお思いになられた方もいるかと思うので、話は遡りますが説明します。
症状は「耳管開放症」ということで、No.1で記載しましたが、この症状は中耳炎によくかかる人がなりやすい症状で、中耳炎というのは中耳の炎症で、中耳付近が腫れる状態になるのですが、中耳炎が治るとその腫れも引くことになります。それを繰り返しているうちに耳管という耳と鼻の境目にあたる部分が正常の人の管幅よりもひろがってしまい、空気調整が正常でなくなり、あくびや唾を飲み込んだり、時には自然現象で、ダイビングの際によくおこなう耳の空気抜き的な症状が発生するというものでした。


これを緩和するには、耳管付近を通常の管幅にするしかなく、広がっているものを縮めることをしなければならないという理屈なのですが、縮める手段として医師が施した治療が耳管近辺を炎症状態にさせるというものでした。
最初は、長い綿棒に炎症剤をぬり、右の鼻腔から耳管近辺に付着させるという治療をおこなっていたのですが、それも緩和症状のタームがどんどん短くなるので、治療を変えるということになりました。
その治療法というのは、先の長い注射器のようなものに炎症剤を吸い取り右の鼻腔から耳管近辺にその炎症剤を注入するというものでした。
ようは、炎症剤量を増やす事で炎症状態を引き伸ばすという理屈です。


ちなみに、僕はこの一連の説明を医師から聞かされていました。


”理にかなっている”


聞いた時、僕はそう思いました。
(が、ゆえに不安も無く依存性の高い楽観的状態でいられたのでしょうか。。。)


それから、太陽が照りつく中、職場へ戻るころからしばらく顔面右側に違和感を感じていたのですが特に痛みがあるわけでもなく、声がでないわけでもなかったので、仕事を続けました。
今、思い出したのですが1999年6月も下旬の金曜日でした。


2006年9月19日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.4

当時、僕はリクルートグループの人材紹介会社リクルートエイブリック(現在 リクルートエージェント)に在籍をしていまして、治療の後もいつもと同じペースで仕事をしていました。
ただ、仕事をしながら”あの治療の際の痛みと声がでなかったのは何だったんだろうか?”という事が気がかりでしょうがなかった事を覚えています。


が、翌朝も体調は特に悪くなかったので、もうあまりネガティブに考えるのはやめようと思いつつ前々週から実施されていたリクルートグループ対抗の野球大会へと向かいました。
対抗試合は確か14:00くらいからの開始で、6回くらいまでの夕方16:30前後までは軽快にプレーをしていたのですが、その後急に体がだるくなり寒気を感じ、試合を終える頃にはかなりの熱があることを感じていました。


僕は、少年時代から高校まで野球をやっていたのと体型的にも身長178cm体重68Kgなので、まわりから健康優良児にみられるのですが、結構見掛け倒しで年に2〜3回は風邪を引くという人でした。
また、平熱も35度くらいとかなり低く38度も熱がでると、それはそれは体がだるく、中高の部活の際に風邪を引いて熱があるから休みたいと言っても


監督から
「熱は何度か?」


と、聞かれて
「37度です」


と、答えると
「バカヤロー!そんなの熱のうちにはいらねー!」


と、よく言われ何度かへろへろになりながら練習をしていたのを思い出します。


なので、その時も”また風邪か?”と思いつつ足早に身支度をしてメンバーとの野球の後の飲み会も失礼して、一目散に家路へと向ったのですがその道のりも何ともだるい事だるい事。


”これは、結構熱があるなー”


と思いつつ約1時間電車に揺られていました。
家についたのは夜19:00くらいでしたでしょうか。
取り急ぎシャワーを浴び、熱を測ったら40度近い熱がありました。
久々の40度近い熱にビックリしたとともに、とにかく体がだるく意識も朦朧としていたので市販の風邪薬と水を大量に飲み夏だというのにスエットを重ね着し、厚手の布団に包まって寝る事にしました。


いつもだとこれをすれば1日くらいで、熱はある程度引くのですがこの時は違っていました。
翌日になっても熱は40度のままで、天井が回ってみえてくるありさまでした。
あまりに熱が高く下がる気配すらないので、日曜の夜に急患でお茶の水の日大病院へ行ったのですが、とりあえず解熱剤をもらい「しばらく様子を見るように」ということで、その日は診療を終え帰宅しました。


<翌、月曜日>
熱が出てから2日目ですが相変わらず40度の熱です。
これは、耳鼻科に行って診断してもらおうと例の耳鼻科へとタクシーで向かいました。
その間もかなりだるだるでしたが、なんとかその耳鼻科に到着し、、、


「先生、土曜の夜から40度の熱が下がらないんです。。。」

「んー、じゃ、注射をしましょう」
と、いうことでステロイド剤を注射したのを記憶しています。

「これで、しばらく様子をみてみましょう」
先生は、少々不安な様子でした。

「はい。。。」
この時は、もう”はい”くらいしか返答できないくらい朦朧としていました。


そして、その後久しぶりに熱が38度くらいまで下がったので、”これで良くなるかな”と思いつつ寝ていると、またまた夕方に40度に熱が上がっていました。


<翌、火曜日>
また、耳鼻科へ行き注射をうってもらいました。
が、今度はまったく熱が下がる気配もなく次第に喉の廻りが腫れ、水すらも痛くて飲めないという事態になってきました。
この時は丸3日間食欲も無く、ほとんど水やスポーツ飲料水といった状況だったので体力的にもそうとう衰弱していたと思います。
にも関らず、水すら喉が痛くて飲めない。。。熱も相変わらず40度。。。


”これは、変だぞ。。。”


そんなことも思う余裕がなくなっていた僕でした。


2006年9月20日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.5

<翌、水曜日>


この日も高い熱にうなされていたとともに時間が経過するにつれ、なぁ、なんと<唾液が飲み込めない>という状態になってきてしまいました。
<唾液が飲み込めない> という感覚をわかる方はあまりいないと思いますが、汚い話ですが飲み込めない状態で、唾液がでるとティッシュに吐き出すしかないんですが、これをやりつづけると今度は、次第に唾液が粘着性の高いものになり、口の中が渇いて水分が欲しくなるのですが、唾液も飲み込めない状態ですから水も飲めない。。。


せいぜい、うがいをするのが精一杯の状況でした。


そして、夜になると呼吸をするのも喉が痛くで困難な状態になってきたのです。
これには、さすがにビビリました。
呼吸が困難って、結構やばい状態です。
もちろん、この頃になるとまともに話ができる状態でもありませんでした。


うろう、るい、るしい の もだく三重苦状態の中、救急車を呼び根津にある日医大病院に運ばれました。


夜も19:00を過ぎていた頃かと思います。
医師が、応急処置で喉の腫れをとるために麻酔を喉の近辺に注射し、腫れている部分にメスを入れ、血を流すということをおこなうとともに痛み止めと解熱剤の注射をされました。
そして、病室に運び込まれ即入院です。
その後、数時間が経っても状態は何も変わりませんでした。


それどころか、よけいに喉の痛みはますばかりです。
意識も依然もうろうです。


この時僕は、老人1人がいる病室に2名でいたらしいのですが、テレビドラマによくある死を直前に向かえる人の医療機器(心電数?)が、ピッー (2,3秒間隔く) ピッー、ピッーと長い間聞こえていたのを記憶しています。


少々、スピチュアルな話になりますが僕はそれまで霊的な感覚はもとより幽体離脱という状態にも無縁な人だったのですが、この時初めて天井から自分が自分を見ているという体験をしました。
(夢だったのかもしれませんが。。。)
数秒、いや数十秒だったでしょうか?
この時はもう時間経過の認識がありませんでしたからさだかではないですが、ピッー (2,3秒間隔く) ピッー、ピッーという音とともに自分がぐったりしている自分を見ていました。


<翌、木曜日>


様態が、更に悪化急変です。
朝から のた打ち回る 喉の痛みです。


早急に耳鼻治療室に運びこまれ医師が喉を診ました。
結構、長く診てました。
すると、看護婦に何やら話し掛け1、2分すると4名ほどの医師が集まってくるやいなや、順番に僕の喉を診ては、

「ん〜。。。」
「初めて診るねぇ」
「なんだろうねぇー」


と、いう言葉が聞こえました。


僕は、まだ自身の状態を把握していませんでしたが なんと、、、


僕の喉右側は壊死(腐り溶ける)をし始めていたのです!?



2006年9月28日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.6

<同日、木曜日>


その後、診療室からレントゲン・CTスキャン室へ即移動をさせられました。
僕は、激痛をともなうのにもかかわらず意識はもうろうとした中、これはただごとじゃない気がしていました。
レントゲンを撮り、CTを撮り、採血をし、ありとあらゆる検査をしました。
その間、激痛を緩和するために痛み止めの注射もしたのですが、これが意識をもうろうとさせる原因だったのでしょうか、うつろな感じで病室にもどされ、その後身内が医師から呼び出され僕の状況を説明したようです。
後で、身内から聞いたのですが医師の説明は、、、


「右側の喉が壊死しています。日医大 耳鼻咽喉科ではこのような症状は初めて見るもので、今現在においては検査の結果から原因は把握できてなく、効果的な治療を施せない状況です。
取りあえずは、定時に抗生剤を点滴し様子をみるしかないです。。。」


と、いう感じだったようです。


<翌、金曜日>


症状は、悪化の一途です。
痛み止めの薬(注射)がきれると激痛がはじまり、また注射。。。繰り返しです。
更に朝と夕方と夜に抗生剤とブドウ糖のダブル点滴。
また、朝と夕方に採血。
と、注射づけです。
この時、僕ははじめて自身の症状を母から聞いたのですが”なんだ?それは?”という感じで、”いつ治るのか?”という事が気がかりで気がかりで、”これからどうなるんだろう?”という不安がつのりました。

ちなみに壊死は一過性のものではなく進行を続けていたようで、右側の喉とは扁桃腺部分(いわゆる喉ちんこ)右側なのですが、その後(1週間後くらいでしょうか)徐々に頸部にも侵食をはじめていくのでした。


<翌、土曜日>


体調を崩し、まともに食事をしなくなってから1週間です。
ブドウ糖を点滴しているとはいえ、体力的にはそうとう衰弱している状態だったので医師が


「重湯でもいいから食べないと、体力が更に弱まりどんどん症状が悪化するので昼に重湯を食べましょう。」


と、言うのですが、とてもじゃないですが痛くて食べれる状態でありません。
医師もそれはわかっていて、


「食事の30分前にモルヒネを注射します。」


とのこと。


”モルヒネ”?


その時、僕ははじめてモルヒネという存在を知りました。
まぁー端的にいうと麻薬なのですが、痛みを最大限和らげる薬といえば薬という妙な存在ですね。


そして、11:30くらいにモルヒネを注射されたのですが10分もするとちょっと意識が変な感じでした。
目がゆっくりと回り、見えるものがゆっくりと波うつように揺れている、、、昇天していく初めての感覚でした。
その後、口にじょうごを差し込まれ重湯を流し込まれたのですが、<食>とは<人に良し>と書くようにさすがなもので、ほんの少し力がついたような気がしました。


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