「では、その治療法を始めましょう。」
「はい、よろしくお願いします!」
僕は、その治療に対して何の迷いも無く漠然と”これで良くなる”という思い、いや、というかむしろ期待感を抱きながら治療椅子に腰を掛けていました。
この時の僕は、極めて依存性の高い楽観的な意識にあったように記憶しています。
現在、講演ビジネスにおける仕事をするようになり10年前に癌でお亡くなりになられた逸見政孝さんの奥様の※逸見晴恵さんとよくお仕事をさせていただくのですが、晴恵さんは政孝さんの癌闘病からお亡くなりになられるまでの軌跡と家族愛を主とした講演をなされるのですが、その経験から※セカンドオピニオンの重要性を強く訴えられています。
この時には僕はもちろんですが、まだまだそのような概念は一般的に浸透していなかったと思うのですが、この時に僕がセカンドオピニオンという概念を知っていたら、僕の行動なり今が変わっていたかもしれないと思うと”知っていると知らないでは大違い”とよく言いますが、人生において”知っていると知らない”とでは、その後において大なり小なり、よきにせよあしきにせよ岐路をもたらすものだと痛感しています。(この表現って知っている事がいいのか?そうでないのか?微妙ですが。。。でも、知らないよりは知っている方がいいに決まっていますよね。)
<三十の手習い>ではないですが、いくつになっても日々勉強。いや勉強はいくつになっても、どこでもできるものと今更ながら思います。(いやいや、思うものだけでなく実践もしていますよ)
人間は、世の中のほとんど(確か97%も。。。だったでしょうか?)を知ってはいないということを以前新聞で読んだ事がありますが、そう考えれば一生貪欲に勉強するべきだと。
ただ、何故に”その後において大なり小なり、よきにせよあしきにせよ”などという微妙な言い回しをしたかというと、知の蓄積は素晴らしいことですが知っているだけでは 人生だめ! という気がしてならないからです。
知っているとは知識にしか過ぎないもので、知恵や判断力や行動がともなって最大限活きるもの、生きていく上での人生にとっての重要な要素だと思うからです。
「三十の手習いの学問は、知恵や判断力や行動力が養われる学問でありたし」 そんな気持ちで勉強している昨今です。
ちなみに知の蓄積(知識)をインプットとすれば知恵や判断力や行動力は、さしずめアウトプットになるわけですが、この[インプットとアウトプット]人生とは。。。のタイトルにおいて重要なキーワードですので、是非念頭においておいて下さい。
話はだいぶそれましたが、もとに戻って、、、
極めて依存性の高い楽観的な意識にあった僕は、ただただ医師に身をゆだねる状態で、その治療は開始されました。
「グッチュ」
右耳の奥からそんな音が聞こえた瞬間、左脳が「痛い!」という言語を発する指令を間違えなくだしているのですが、「痛い!」という言葉が発声できない。。。
声がでない、、、「あー」そんな言葉をだそうとしてもでない。。。
人生で、かなり衝撃的な初めての経験でした。
※セカンドオピニオン
(第二の診断)。病気の理解を深めるために主治医以外の意見を聞いて情報収集すること。1.主治医の診断や方針に対する確認ができる 2.治療の妥当性を確認できる 3.主治医の示す治療法以外の治療法が得られる可能性がある 以上3点が効用として考えられる。
