人生とは。。。三十路なりたて編 No.10 |
”時” とは、早く感じたり遅く感じたりとその都度都度において人の捕らえる感覚を変化させる不思議なものですが、闘病中は何とも時間を長く(遅く)感じていたのですが、病状もよくなり退院日(確か9月4日か5日あたり)まで決まった8月末には、生死に関わる状態であった7月、8月という入院約2ヶ月間があっという間の出来事のように感じられ、いざ退院という段階になるとだんだんと以前よりも時間の進み具合が早く感じられるようになったのを記憶しています。
「人は、時の中で生かされている。。。」
退院後2週間程度まだ自宅療養でしたので、時間は充分にあり、そんなことを感慨深く思っていました。
とは、言うものの退院直後は相変わらずまだ濁音が言えないという状態だったのと、医師から「完治したとは言いきれず、いつか再発するかもしれない」という可能性を示唆されていたので、後ろ向きな気持ちが大半を占めていました。
「自分は、何でこんな病気(というか事故?怪我?)をしたのか?」自分の人生を振り返って考えても真実の答えなどわかりもしないことに自問自答し悩んでいました。(多少やるせない自暴自棄というかうつ状態というか。。。)
が、3日が経ち4日が経ち日を追うごとに
「これではいけない。運良く俺は生きている。考えようによってはついている。そしてこれからも生きなくちゃいけない。生きていくために今できることをしよう。」
と思うようになり、発声練習をし、頭の回転を取り戻そうと好きな歴史小説を読みふけりました。
発声練習は、鏡に向い濁音がうまく言えるよう口の大きさ等をチェックしながら毎日30分を3セット。
読書は、高校1年の冬に読んで私が師と仰ぐ坂本竜馬 「竜馬がゆく」 を読み返しました。
発声練習はなかなか思うような成果がでませんでした(濁音がなんとか普通に言えるようになるのは11月中旬くらいからでした)が、竜馬がゆく を読んでいると高校生とはまったく違う次元で竜馬という人間はもとより幕末を生きた志士達の悲喜こもごもが、染み入るように感じ取れました。
「人にはそれぞれ持って生まれた宿命運命がある。
生きているということは、世の中の何かに必要とされ、何かをするため・残すために生かされている。
俺も何かをするため・残すために生かされている。
何かしよう!いや、しなければ!そう何が何でも!」
そんな思いが沸き立ちはじめたのです。
