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2007年3月 アーカイブ

2007年3月 7日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.15

渡邊さん(この時はまだ違う会社なので、それを基準にあえて渡邊さんと記述しています)
に会うのは、私が入院している際にお見舞いに来ていただいて以来なので約8ヶ月ぶりになりますが 実は学生時代からの付き合いで、学生当時9名で企画サークルを運営していまして、渡邊さんが代表私が催しの企画や構成などを考える担当で、当時は違う大学にもかかわらず最低でも週に4日は会っていたという仲でした。


当時は現在放映されている「バブルへGO!」という映画のバブル全盛期と同じ1990年。
(先日、「バブルへGO!」観たのですがかなり面白かったです。当時の時代風景が滑稽的によく描写されていつつも、バブル的行動を現代に煽るわけでもなく、むしろ「あの時代をアンチテーゼとして現代を考えよう」というようなメッセージが感じられる単なるコメディー映画ではない作品でした)


世の中全体が有頂天ながらも勢いがあった時代でした。
”やりたい!”と思う事が実現できる可能性の高い時代といってもいいかもしれません。
(世の中面白いものですが、世の中の状況が極度に高・低どちらかになるとそういう世の中になるもので、中途半端の状態だとやりたいことがなかなか実現できないといったケースが多いように見受けられます。守りに入るのでしょうか?人間は?)
私も、 ”同じ阿呆なら踊らにゃ〜損損” タイプなので渡邊さんと運営していたサークルでいろいろな事を企画して実行しました。
その分大学の勉強では学べない社会と人について良い経験と勉強をさせてもらいました。
ちなみに私の学生時代の専攻は、農獣医学部でしたので本当に別世界でした。


そんな間柄の二人ですが、大学卒業後は渡邊さんはマスコミ(新聞社)へ私はリクルート人材センター(現リクルートエージェント)へ入社し、それぞれの道をしばらく歩むわけですが、その後1995年に渡邊さんは若くして起業し、ペルソン&ペルソンエンターテインメント有限会社(現株式会社ペルソン)を設立し、いくつかの業態で会社を切り盛りしてきて会社設立5年を経て、とあることをキッカケにインターネットを活用した講演ビジネスを構想するのですが、この時会ったのはその インターネットを活用した講演ビジネス の相談でした。
マッチングビジネスという観点においては、人材紹介と同じ業務フローが当てはまるので渡邊さんの話を聞いてすぐにビジネスモデルは理解でき、仲介業の存在意義を身をもって知っているだけに充分なりたつビジネスだと思いました。
ただ、当時まったく同じビジネスモデルで競合が存在しないという状況で、どの程度のマーケットが存在するのかが少々未知数で、そこが一抹の不安材料でしたが、とても面白いビジネスだと思ったのと何よりも渡邊さん向きなビジネスだと思い、ビジネス成功に向けて私なりの意見を伝えたのでした。


これをお読みの方は、これを境に鈴木がペルソンにジョインしたのか?とお思いになるかと思いますが この時はまだ さにあらず で私は当時Webの制作とマーケティングに強い興味と関心を持っていまして、7月にリクルートエイブリック(現リクルートエージェント)を退職し、お互いが2年6ヵ月後の2003年1月から一緒に仕事をするであろうということは、当時お互いが想像だにすることもなく、私はWeb制作とマーケティングの仕事に従事し、渡邊さんは 「講演依頼.com」 の立ち上げに奔走していくのです。


ルーツと血筋

「人生とは。。。三十路なりたて編 No.15」 で、記述させていただきましたが2000年7月に私はリクルートエイブリック(現リクルートエージェント)を退職し、Web制作とマーケティングの仕事に従事するのですが、私は昔から親に進路を相談することをせずに、30歳(この時)まで生きてきてしまったので、この時も親に相談するどころか退職したことをも報告することを怠っていたのですが、8月に母親から自宅へ電話がかかってきて


「勝彦!あなた会社辞めたんだって!」


と、ものすごい剣幕で怒鳴られました。


「とにかく、電話では何なんで会って話をするよ」


と いうことで、その週の土曜日に実家へ行き父親と母親に経緯とWeb制作とマーケティングの仕事内容について話をしました。
当時はまだ父親・母親世代にはインターネットという名前は知っていても実態はまったくチンプンカンプンだったようで、理解してもらうのが大変でしたが父親が


「ようは、Webという媒体を使った広告代理店+システム会社か?」


と、言ったので


「まぁ、そんな感じ」


と、答えました。
(あながち外してはいないと思ったので)


そうしたら、父親が


「面白いもんだな。。。血は争えないものだ」


と、しみじみと言ったのです。


私が、


「何が?」


と、聞くとそれまで鈴木家のルーツなどほとんど話したことのない父親が


「爺さんには兄さんと弟がいて、3人兄弟だったんだが上の叔父さん(父親との関係)は小説家を目指して、芥川龍之介に師事していたこともある人で著書も出版しているんだ。また下の叔父さんは軟式野球の健康ボールを製造している会社で広告宣伝の仕事をしてたんだ。
ちなみに爺さんは、勝彦も知っていると思うけど工作機械の設計をやってたんだからな。」


「へー そもそもお爺さんに2人の兄弟がいたなんてことも初耳だし、そんな仕事をしてたなんて驚きだねー、ルーツと血筋かぁー もしかしたら誰しも遡ると自身に似ているご先祖様がいるのかねぇー?」


「んー、そうかもしれないなぁー。。。」


私も父親も当時私がやっているWeb制作とマーケティングの仕事が妙にご先祖様3人のいづれにも近いものだと感じ、感慨深い一瞬を共有したのを覚えています。


そして、その夜 ふと 自分が世の中に生を受けて存在するまでにものすごい数の人間が関係していることに気がつきました。
ちなみに10代遡ると1024人、11代遡ると2048人、12代遡ると4096人、15代遡ると何と32768人の人間が僕に関係しているわけで、1世代50年として15代昔は750年〜800年前に相当する計算になるので、鎌倉時代初期。
さらに遡ること奈良平安時代からだとさらにすごい人間の数が関係するわけで。。。
(北の国から の 純 語りべ調)
父さん、これはとてもすごいことなわけで。。。


そんなことを思っていると、とてつもなく人間の営みに神秘性を感じ、生命の尊さを感じました。


”後世に何を継承させ続けさせられるか” が、自分がこの世に生を成し生きた証の価値になる。
私には、何があるのか?
その日は久しぶりに寝れない1日となり、翌 日曜日に9年ぶりにお墓参りに行きました。


2007年3月 9日

人生とは。。。三十路中盤へ編 No.16

時は流れて、2001年9月11日夜。
2日前の9月9日に私は、私が最も尊敬し憧れる坂本龍馬が亡くなった(暗殺された)歳と同じ33歳になっていました。
※ちなみに龍馬の命日は11月15日で、誕生日でもあります。んー、感慨深い。。。


誕生日から3日間生死についてなんとなく考えていたところ22:00くらいに帰宅をして、テレビをつけるとものすごい光景を目の当たりにしたのです。


そうです、9.11 アメリカ同時多発テロ事件です。


はじめは、映画でもやっているのかと思いましたがチャンネルを変えても変えても同じ映像が報道されているので、これはすごい事件だと かじりついてテレビを見入っていました。
最初は、みなさんもまだ記憶にあると思いますが世界貿易センタービルへ飛行機が衝突する上空からの映像がほとんどだったのですが、時間の経過ごとに映像が街並みや人にクローズアップされてきました。


その様子たるやは、みなさんも充分に想像できるかと思いますので割愛しますが、凄まじい光景をブラウン管というフィルターを通してではありますが、リアルに人の生き死にを目の当たりにし私はあることを確信しました。


”本当に自分もいつ死ぬかわからない、万物は人生は生命は有限だ。
2年前に生き死ににかかわる入院をし、運良く生きれた自分もいつかは死ぬ。。。” と


そんなことを考えていると、ふと退院後に思った


「人にはそれぞれ持って生まれた宿命運命がある。
生きているということは、世の中の何かに必要とされ、何かをするため・残すために生かされている。
俺も何かをするため・残すために生かされている。
何かしよう!いや、しなければ!そう何が何でも!」 (人生とは。。。三十路なりたて編 No.10)


という気持ちがメラメラと湧き上がってきて、


”死というものを茫洋とさせていてはいけない!では、自分はいつ死ぬのか?
そんなことは誰にもわからない。。。けど、明確にしたい!どうにか自分が納得できる何かはないものか。。。”


すると、自分の人生を振り返って誕生から考えると10年良くて10年良くない、次に5年良くて5年良くない、次に2.5年良くて2.5年良くない、次に1.75年良くて1.75年良くない、、、
と、いうような人生サイクルのように思えてきたのです。
そして、当時33歳の私がこのサイクルを続けていくと限りなく0に近づく歳が42歳だったのです。


42歳、そう男の厄年、本厄です。
その瞬間、妙に納得して思いました。


”自分が死ぬ歳は42歳にしよう。とすると、自分の人生はあと9年。のほほ〜ん とは生きてられない!
やりたい事を精一杯やろう!後悔したり、思い残す事の無い人生をおくろう!”


9月12日明け方。徹夜して見ていたテレビを止めベランダにでると真っ赤な太陽が目の前にありました。
私は、無性に走りたくなりジャージに着替え近所の隅田公園を走り回っていました。


ちなみに以前この話をある友人に話したら


「多少、自虐的発想じゃない?」


と、言われました。


でも、先ほどのサイクルには”希望”があって、そのサイクルを続けても限りなく0には近づくものの永遠に0にはならないのです。
これ、私にとっては涙がでるくらいにとてつもないことを発見したような気分でした。


2007年3月23日

人生とは。。。三十路中盤へ編 No.17

更に時は流れて、2002年10月も半ば。私は34歳になっていました。
1年1ヶ月前の9.11 アメリカ同時多発テロ事件以来 仕事に遊びに 遮二無二生きてきた私が更に大きく変化したのは、感性というものでした。


以前の私は、楽しいことのみが大好きで、できればいつでも笑って過ごしていたいという超楽天的人間で、ものごとに感動をしたりとかのいわゆる喜怒哀楽が希薄な人間だったのですが1年1ヶ月前の9.11 アメリカ同時多発テロ事件以来、様々なシーンで感動したり涙したり笑ったり怒ったり哀しんだりという喜怒哀楽の表現が激しい人間になっていました。


別段悪いことだとも思っていないので、今だにそうですが自分で何故ゆえにそうなるのかを思うと見るもの・聞くもの・嗅ぐもの・味わうもの・触れるものといった五感が昔より徐々に敏感になってきているような気がします。
何故か? それは、うまいことの説明ができないのですが五感で捕らえた対象事象に自分なりにストーリーをイメージしたり、何故そうなるのか?だぶんそれはこうだから。。。というような機微を感じられる イメージできる ようになってきたからだと思います。
いわゆる、第六感的なものというのでしょうか?


また、よく書籍や雑誌で人の能力を高める重要要素に ”感性を磨け” ということを見かけますが、この”感性を磨く” 一番の方法は私が33歳からそうなった 物事や事象に対して 何故?何故そうなるのか?どうして、そうなのか?ということからのスタートがすべてのように思います。
そして、次に自分なりに「たぶんこうだから。。。」というような仮説や物語(ストーリーやヒストリー)をイメージというか創ってみる。
そして、その仮説や物語(ストーリーやヒストリー)をできる限り検証してみる。
そうすると、だんだんと好奇心が勝ってきて知りたい欲求が高まる。                     


この状態になると自然と思考の回路が、五感対象(もしくは経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証 の サイクルになっていき人間の良さや醜さが実感でき、またそれを受け入れられるようになり更に深層心理が察せられる力がつき、物事の本質を見抜く力も養なわられ、徐々に万物の原理原則がわかってきて感性というものが少しずつ研ぎ澄まされていくように思います。
また、五感対象(経験対象)とは実は生活しているあっちこっちに存在していて、見過ごすか五感対象(経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証という行動ができるかは本人がまずは、五感対象(経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証をしていこうという自覚と意識を持って物事を捕らえられるかにかかっているかと思います。


私は、感性とは物事を捕らえるキャパシティーの広さ、自分なりに想像(妄想もあり)できる力が豊かか否かだと思います。
あとは、それが当っているか間違っているかはセンスにもよりますが、五感対象(経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証の経験量や数が多ければ多いほど当っていく可能性が高められるものだと思います。


話は長くなりましたが、そんな私が2002年10月半ばに自分で選んで2年4ヶ月邁進して取り組んでいたWeb制作・マーケティングという仕事に壁を感じていました。
その壁は、私はそもそもリクルート人材センター(現リクルートエージェント)という会社を選んだのもそうなのですが、基本自分軸は「ヘルシー」「ハート」「ファミリー」が豊かに満たさせることのできる商品もしくはサービスを世の中に提供できる仕事をしたいという考えで、就職活動途中にその商品もしくはサービスが何なのか見失い、縁あってアルバイトをしていたリクルートであれば探せるのでは?という理由(他にもいくつか選んだ基準や背景はありましたが)もあり様々な会社を知れ勉強できるリクルートグループのリクルート人材センター(現リクルートエージェント)へ入社(何故リクルートではなかったのか?それはリクルートは不動産、ファイナンス、車、旅行など人材以外のサービスも展開していて、どこに配属されるかはわからなかったからです)し、さらに2000年7月にWeb制作・マーケティングが「ヘルシー」「ハート」「ファミリー」を豊かに満たさせることのできるツールであると思い、その仕事に従事したのですが、これが企業等からの各種団体からの請負での仕事なので理想の追求と現実の生活とのシーソーでバランスが自分の中でうまくとれなくなり、またマーケット的にもかなり値崩れを起していて、生産性のよくない仕事になり思い悩んでいました。
そんな中、”「ヘルシー」「ハート」「ファミリー」を豊かに満たさせることのできる” を 変えずに更に自分自身の強みや能力、したいことは何なんだろうと考えていると、”表現する” ということにたどりつきました。
そんな最中、人のめぐり合わせとは面白いもので2002年11月あたりから とある人を媒介(失礼な言いかたで恐縮です)にまたまた渡邊陽一さんと会うことになったのです。


2007年3月26日

人生とは。。。三十路中盤編 No.18

2002年11月から渡邊陽一さんと数度会い話をしていく中で、私は改めて講演ビジネスの面白みと社会的意義性を感じるとともに将来的に多様な媒体を屈指して私が取り組みたい”表現する”という仕事が間違いなく実現できるという思いと、今までのビジネス経験が十二分に活かせるという自信と何よりも渡邊陽一さん=株式会社ペルソンの理念である

―価値観の伝達―
我々の仕事は様々な価値観の伝達をすることです。
世の中には様々な価値観が存在しています。人間が成長していく上で大切なのはどれだけ多くの価値観に出会え、そしてそれらの価値観をどれだけ素直に認められたかにあると考えています。町角の、普通なら見逃してしまいがちな人物の価値観が、人生を大きく変えてしまいかねないとも限りません。我々はこのような見逃してしまいがちな人物の価値観まで焦点をあてていくことを心がけています。


に共鳴し、2003年1月1日付けにて株式会社ペルソンへ入社をする運びとなりました。


2007年1月段階で満4年の在籍になりますが、講演を通じて様々な講師及び講演主催者様にお会いをさせていただき、こんなにも自分にとって天職と思える仕事は間違えなく他には無い!と思い、また私という人間はこの仕事を成すがために生を受け、これからも生かされていく人間なのだと実感できる程自分向きな仕事だと自負しています。
今は渡邊・私鈴木を含め15名の所帯で、優秀(ポテンシャルも勘案して)なメンバーとともにより多くの−価値観の伝達−を講演(及び講演依頼.com)というシーンや媒体を通して世の中に提供させて頂いています。


”やりたいことが仕事というシーンで、十二分に行え続けられる”


私にとってこんなにも幸せな人生は無いように思えます。
これから(2007年4月以降)の私とペルソンについては、No.21か22あたりからブログしていきたいと思っていますが、人生とは一寸先は闇 と、いうように山谷あるものですが、ペルソン在籍約4年3ヶ月もすべてが順風満帆というようなものではなく、これからおこる出来事はすべて自業自得が招いた事件なのですが、、、今 振り返り自分への戒めと、この「人生とは。。。」を綴っていく上で外せない経験なので執筆します。


それは、ちょうど2年前の2005年3月26日(土)。
諸事情で1月半ばから激務につきほとんど息抜きもしていなかった私は、10期目標達成の見通しがついた3月25日金曜の晩に友人の誘いもあり、21:00あたりから久しぶりに数名でおいしくお酒を飲んでいました。
かなり場は盛り上がり2次会、3次会、4次会へと。。。
お酒が入るとついつい調子にのってしまう私は酔っ払いを通り越し酩酊状態になっていました。
最終的に翌26日(土)6:00くらいに赤坂9丁目あたりで友人数名と別れ、1人タクシーを待っていたのですがタクシーが なかなか来ずフラフラと歩いていたのです。
この辺りからこれからおこる事件までの記憶はまったく無いのですが、その後(7:30前後)私は銀座線渋谷駅浅草行きホーム 際 を千鳥足でフラついていたのでした。


日中に、街を歩いていると櫻が咲いているのを目にしました。
ふと、こんな歌を思いつきました。


            櫻咲き 心にうつる 春げしき うたも囀り 命にぎわう


櫻とは、不思議な花です。


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