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2007年4月 アーカイブ

2007年4月 5日

人生とは。。。三十路中盤 No.19


「痛ってーーー!!」


気がつくと線路が見えました。
そうです。ホームから意識なく線路へ転落したのです。
”はっ!” と 電車がこないか右左を確認しました。幸運にも電車は見えませんでした。
右ひじに激痛を感じながらも”とりあえず助かった” と 思い、立ち上がろうとした瞬間 腰まわりに激痛が走りました。
とてもじゃないですが立ち上がることのできない私は大声で、「痛ってーーー!!」と叫びました。
すると、ホームから


「線路に人が倒れてるぞー」


という声が聞こえました。
とりあえず”助かった”と思いました。
すると、何人かさだかじゃないのですが数名の方々が線路からホームへ私を引き上げてくれました。
顔も名前も覚えていないのですが、本当に助けて下さった方々へお礼申し上げます。
ありがとうございました。


私は、ホーム奥で立ち上がることもできず横になったまま駅員の方に付き添っていただき救急車を待っていました。その間の右ひじと腰まわりの激痛ときたらそうとうなもので、骨が折れるとこういう現象があるのかと目の当たりにしたのですが、右ひじが自分の意志ではなく勝手に動いていました。
15分、20分いや30分程経ったでしょうか。。。えらく時間が長く感じました。
すると、救急隊がやってきてタンカーに乗せられ銀座線渋谷駅ホームから南口へ出て救急車へ移され広尾病院へ連れていかされました。
その間、前日のアルコールのせいもあるのか怪我のせいもあるのか、ものすごい喉の渇きを感じて水を飲まして欲しいと激痛にうめき騒ぎながら懇願していた覚えがあります。


そうこうしているうちに広尾病院へと到着すると緊急処置の必要があるとのことで、洋服をハサミで切り取られ右ひじを医師がみて、


「すぐ手術をします」


と、言われました。
その時に右ひじの状態について医師から説明を受けた記憶はないのですが、後日右ひじが開放粉砕骨折ということを知りました。
ちなみに何故ゆえにすぐに手術をしなければならなかったか?というと開放粉砕状態なので8時間以上開放した状態で放置しておくと菌が付着して骨に菌が入り込む可能性が高くなりその後手術しても一生薬を飲みつづけなくてはならないはめになるとのことでした。


ここで、私は不幸中の幸い(と、いうか 電車がこなかったこと、頭を打たなかったこと等転落した時から不幸中の幸いは始まっていたのですが)とめぐり合います。
それはたまたま手術室が空いていて、かつ手術ができる外科の先生がいたのです。
日によっては、どちらかがダメもしくは両方ダメという時もある中で運がありました。


手術をするにあたり麻酔を投与するのですが、その前に看護婦さんにどうしても水を飲まして欲しいとお願いしたのですが、、、


「これから手術だから飲ませられない」 と言われたので 「じゃ、うがいだけでも」と いうことで水をもらい、うがいをして飲んじゃいました。(看護婦さんには結構マジで怒られました。。。ちなみに入院中もその看護婦さんが私の担当だったので、しばらく問題を起こさないか目をつけられていました。)


その後全身麻酔を打たれたのですが、麻酔の威力はすごいもので あっ! というまに記憶がなくなりました。
気がついたのはその日の夜7時とかでしょうか。まだ意識はもうろうとしていたのですが身内が見舞ってくれていたのを覚えています。
翌日、手術が6時間かかったことを聞きそしてこれからレントゲンとCTで腰まわりを撮影することを看護婦さんから聞かされました。
レントゲン・CTの結果は、右骨盤骨折でした。
これは、骨折の部類でもなかなか重症度が高く、かつ手術が結構大変な箇所だったらしくもろもろの諸事情で手術は3日後の3月30日水曜日ということになりました。
その間は右ひざお皿辺りに針金を貫通させ足を伸ばして十数キロのおもりで引っ張るという状態でした。(右ひじは右ひじで棒状のものに引っ掛けられていました)
ただ、麻酔や痛み止めや抗生剤等のチャンポン投与で意識がさだかではなくほとんど寝ているか、起きていても意識がもうろうとしていた状態でした。


そして、3月30日(水)朝またまた全身麻酔を打たれ コロッ と記憶を失いました。
手術は12時間以上にもおよぶものだったのですが、無事成功しました。
ちなみに目がさめたのは翌31日(木)の昼間で、やはり意識はもろうとしていました。
木曜日は、うっつらうっつら な状態だったのでほとんど記憶になく翌4月1日金曜日にある程度意識が回復しました。


2年前の4月1日エイプリールフールだからではないですが、この日の夜から翌朝にかけて私は不思議な体験をしたのです。


”人間の体とは時として超常現象的な感覚をもたらすものだ”


と、いうことを実感した出来事でした。


2007年4月19日

人生とは。。。三十路中盤 No.20

4月1日金曜日20時30分くらいだったでしょうか、抗生剤投与の点滴をされたのですが抗生剤という異物が体の中を循環し、それが膀胱へといきつきもう少しすると間違えなくおしっこをするという感覚を持ちました。
その時、身内と友人がいたのですが、その時の感覚を話して


「もう少ししたらおしっこがでるから尿瓶を用意しといて」


と言いました。
(何故ゆえに尿瓶か?というと骨盤の手術をして1ヶ月間ずぅーとベッドで寝たきりにしていなければならなかったんです。。。。。身動きをすると骨盤がまたクラッシュしてしまうので、まったく微動だにも動けない状態でした。これってかなり苦痛です。)


散々体に麻酔だの抗生剤だのの異物を注入され体が拒絶反応を起こしたのでしょうか、確実に体が異物を吐き出そうとしていました。
案の定10分程経ち点滴もそろそろ終えようかという時に点滴投与量と同じ量くらいのおしっこがでて身内や友人が驚いていました。(それが、ほぼ抗生剤成分だったか否かはもうわかりませんが調べてもらえばよかったと思っています)


その後まだうつろうつろな状態で21:00過ぎに一旦眠りにつきました。
そして、時間は何時だか覚えていませんが夜中も3時くらいでしょうか、ものすごい喉の渇きで目がさめ看護婦に備え付けの冷蔵庫にある500mlの水をとってもらいがぶ飲みしたのですが、まだまだ足りず2本3本と立て続けに飲んでは、おしっこをし、更に2本3本と飲み、おしっこをし、、、、を何時間か繰り返していました。
意識としては、少々何かにとりつかれた状態でこれを続けると体内が綺麗になり早く治るというような思いでいた記憶があります。
また、その時深呼吸をすると妙に意識が冴えるというか覚醒され、ゆるやぁかぁ〜な感覚がありました。
相当に神経が過敏な状態だったと思います。


ただ、今思えばですがよく落ち着きたい時には深呼吸したり水を飲めと言いますが本当にそうだと思います。通常の神経の時にはあまりそれをしても感覚的にあまり実感できないでしょうが、この時はそうとうにゆるやぁかぁ〜な感覚気分でしたから。(幻覚症状だと思いますが。。。)


そうこうしていると、明け方に骨盤が良くなっていると錯覚した意識になってしまいベッドの上半身部分をリモコンで、徐々に上げたり下げたりし始め更に時間が経つごとに上げる角度を20度、30度、40度、50度と上げたり下げたりしていました。


”これで痛くなかったら治っている”


そんなありえないことを思い何かにとりつかれたように繰り返し繰り返しやっていました。
(どういうわけか痛みはまったく感じなかったので)
そして、看護婦が朝食を持ってくる時間ですから8:00くらいでしょうかほぼ直角状態のベッドで膝を抱えていた僕を見て看護婦が、ビックリしてリモコンでベッドを水平にしようとするのを僕は「止めろ!」と怒鳴った記憶があります。
それでも看護婦はもちろん水平にするのですが、水平にしたとたん自身の意思ではなく勝手に体が動き始めてブレイクダンス的な動き(今 思えば笑い話ですが本当にちょっとした上半身ブレイクダンスだったと思います)をしたり寝返りを打ったり立ち上がろうとしたのです。
私自身そうとう怖くなりました。
意思に反して体(上半身)がブレイクダンスをするような動きをするのですから、そうとう怖かったです。
看護婦もそうとう驚いた様子で大声で医師や他の看護婦を呼びました。
小走りでやってきた医師と他の看護婦もそうとう慌てた様子で


「鈴木さん落ち着いて下さい!動かないで下さい!」
と、言うのですが意思に反して動くものですから止めようがない私は


「勝手に体が!」
といった矢先に寝返りをうとうとする私の手足や胴体を医師や看護婦(4名、5名はいたでしょうか)が羽交い絞めに捕らえられて、医師がすばやく注射をしたのです。(恐らく安定剤だと思います。)


この数十秒は本当に怖かったです。
初めて、いい大人が涙しながら「死んじゃう、俺 死んじゃう、助けてぇー!」と叫んだのですから。
その後ものの数十秒でしょうか、気を失いました。


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