「痛ってーーー!!」
気がつくと線路が見えました。
そうです。ホームから意識なく線路へ転落したのです。
”はっ!” と 電車がこないか右左を確認しました。幸運にも電車は見えませんでした。
右ひじに激痛を感じながらも”とりあえず助かった” と 思い、立ち上がろうとした瞬間 腰まわりに激痛が走りました。
とてもじゃないですが立ち上がることのできない私は大声で、「痛ってーーー!!」と叫びました。
すると、ホームから
「線路に人が倒れてるぞー」
という声が聞こえました。
とりあえず”助かった”と思いました。
すると、何人かさだかじゃないのですが数名の方々が線路からホームへ私を引き上げてくれました。
顔も名前も覚えていないのですが、本当に助けて下さった方々へお礼申し上げます。
ありがとうございました。
私は、ホーム奥で立ち上がることもできず横になったまま駅員の方に付き添っていただき救急車を待っていました。その間の右ひじと腰まわりの激痛ときたらそうとうなもので、骨が折れるとこういう現象があるのかと目の当たりにしたのですが、右ひじが自分の意志ではなく勝手に動いていました。
15分、20分いや30分程経ったでしょうか。。。えらく時間が長く感じました。
すると、救急隊がやってきてタンカーに乗せられ銀座線渋谷駅ホームから南口へ出て救急車へ移され広尾病院へ連れていかされました。
その間、前日のアルコールのせいもあるのか怪我のせいもあるのか、ものすごい喉の渇きを感じて水を飲まして欲しいと激痛にうめき騒ぎながら懇願していた覚えがあります。
そうこうしているうちに広尾病院へと到着すると緊急処置の必要があるとのことで、洋服をハサミで切り取られ右ひじを医師がみて、
「すぐ手術をします」
と、言われました。
その時に右ひじの状態について医師から説明を受けた記憶はないのですが、後日右ひじが開放粉砕骨折ということを知りました。
ちなみに何故ゆえにすぐに手術をしなければならなかったか?というと開放粉砕状態なので8時間以上開放した状態で放置しておくと菌が付着して骨に菌が入り込む可能性が高くなりその後手術しても一生薬を飲みつづけなくてはならないはめになるとのことでした。
ここで、私は不幸中の幸い(と、いうか 電車がこなかったこと、頭を打たなかったこと等転落した時から不幸中の幸いは始まっていたのですが)とめぐり合います。
それはたまたま手術室が空いていて、かつ手術ができる外科の先生がいたのです。
日によっては、どちらかがダメもしくは両方ダメという時もある中で運がありました。
手術をするにあたり麻酔を投与するのですが、その前に看護婦さんにどうしても水を飲まして欲しいとお願いしたのですが、、、
「これから手術だから飲ませられない」 と言われたので 「じゃ、うがいだけでも」と いうことで水をもらい、うがいをして飲んじゃいました。(看護婦さんには結構マジで怒られました。。。ちなみに入院中もその看護婦さんが私の担当だったので、しばらく問題を起こさないか目をつけられていました。)
その後全身麻酔を打たれたのですが、麻酔の威力はすごいもので あっ! というまに記憶がなくなりました。
気がついたのはその日の夜7時とかでしょうか。まだ意識はもうろうとしていたのですが身内が見舞ってくれていたのを覚えています。
翌日、手術が6時間かかったことを聞きそしてこれからレントゲンとCTで腰まわりを撮影することを看護婦さんから聞かされました。
レントゲン・CTの結果は、右骨盤骨折でした。
これは、骨折の部類でもなかなか重症度が高く、かつ手術が結構大変な箇所だったらしくもろもろの諸事情で手術は3日後の3月30日水曜日ということになりました。
その間は右ひざお皿辺りに針金を貫通させ足を伸ばして十数キロのおもりで引っ張るという状態でした。(右ひじは右ひじで棒状のものに引っ掛けられていました)
ただ、麻酔や痛み止めや抗生剤等のチャンポン投与で意識がさだかではなくほとんど寝ているか、起きていても意識がもうろうとしていた状態でした。
そして、3月30日(水)朝またまた全身麻酔を打たれ コロッ と記憶を失いました。
手術は12時間以上にもおよぶものだったのですが、無事成功しました。
ちなみに目がさめたのは翌31日(木)の昼間で、やはり意識はもろうとしていました。
木曜日は、うっつらうっつら な状態だったのでほとんど記憶になく翌4月1日金曜日にある程度意識が回復しました。
2年前の4月1日エイプリールフールだからではないですが、この日の夜から翌朝にかけて私は不思議な体験をしたのです。
”人間の体とは時として超常現象的な感覚をもたらすものだ”
と、いうことを実感した出来事でした。
