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人生 アーカイブ

2006年8月25日

人生とは。。。

みなさん、はじめまして。鈴木勝彦です。
唐突ですが、「人生とは?」 と問われてみなさんは何と答えますか?
十人十色の答えがあると思いますが、私は1968年9月9日に生まれて今までの約38年間を振り返って、人生というものの特長(要素条件)として絶対的に強く思うことがあります。


それは  ”人生は有限”   というものです。


これを強く思うようになったのは30歳〜33歳にかけての頃と更に36歳の春で、僕はその歳(年)においてある経験(体験)を通じ、心底そう思うようになり、それからというもの感性、思考、行動、人間性が大きく変化しました。
(自分で言うのもなんですが。。。)


世界観や価値観が大きく変わったと言ってもいいかもしれません。


何があり、”人生は有限”という思いのもとどのような思考が人間性を変えたのか?
まずは私鈴木勝彦を知っていただくにあたり数回に渡り、その軌跡とこの講演事業にかける思いを綴っていきたいと思います。


2006年8月30日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.1

こんにちは。
初回の「人生とは。。。」の続編ですが、弊社のスタッフメンバーから内容及び語り草について、あまり好評ではなかったのですが、めげずに続けたいと思います。


さて、この度のテーマにある三十路。
そう、僕が30歳の時にそれは襲ってきました。


話は遡るのですが、僕はもともと幼少の頃から中耳炎になりやすい体質で、17歳まで2年に1度は中耳炎にかかるといった少年(青年)でした。


ちなみに17歳以降中耳炎にかかったことはないのですが、ただ17歳以降からダイビングの際によくおこなう耳の空気抜き的な症状が時として自然発生し、その違和感は歳を重ねるごとにその頻度を増していくという状態でした。

特に社会人になるとかなり気になるくらいにその違和感の頻度は増していったので、定期的に耳鼻科に行き治療をしてもらっていました。
が、一時は良くなっても2、3週間もするとまたもとどおりといった状況が続くので、30歳になりたての晩秋に耳鼻科を変えることにしました。


その耳鼻科は最新の医療機器を備えていまして、僕の症状についてわかりやすく説明してくれました。ちなみにその症状は、「耳管開放症」というその当時においては比較的珍しいものであったようで、耳鼻科の先生でも知っている人は多くなく、以前の耳鼻科の先生はその症状についての認識がなかったようで、治療方法もあまり意味のない治療方法だったようです。


また、その症状は中耳炎のような病気というものではなく、中耳炎を何度も繰り返し発生させていくうちにそうなってしまう一種の後遺症的なもので、決定的な治療方法は無いとのことでした。ただ、症状発生の頻度を延ばす治療方法があるとのことで、僕はその治療を施してもらう事をお願いしました。


最初の頃における治療効果は良好だったのですが、人間の体とは免疫がつくというか慣れるというか、だんだんその治療も回を重ねるごとにあまり効果がなくなってきました。
そんな状況の中、先生は「治療の方法を変えれば、また症状の発生頻度を延ばせる」との話をされたので、僕はその治療をお願いしました。


太陽がギラギラと照り尽くす忘れもしない30歳の夏でした。。。


2006年9月 5日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.2

「では、その治療法を始めましょう。」


「はい、よろしくお願いします!」


僕は、その治療に対して何の迷いも無く漠然と”これで良くなる”という思い、いや、というかむしろ期待感を抱きながら治療椅子に腰を掛けていました。
この時の僕は、極めて依存性の高い楽観的な意識にあったように記憶しています。


現在、講演ビジネスにおける仕事をするようになり10年前に癌でお亡くなりになられた逸見政孝さんの奥様の※逸見晴恵さんとよくお仕事をさせていただくのですが、晴恵さんは政孝さんの癌闘病からお亡くなりになられるまでの軌跡と家族愛を主とした講演をなされるのですが、その経験から※セカンドオピニオンの重要性を強く訴えられています。
この時には僕はもちろんですが、まだまだそのような概念は一般的に浸透していなかったと思うのですが、この時に僕がセカンドオピニオンという概念を知っていたら、僕の行動なり今が変わっていたかもしれないと思うと”知っていると知らないでは大違い”とよく言いますが、人生において”知っていると知らない”とでは、その後において大なり小なり、よきにせよあしきにせよ岐路をもたらすものだと痛感しています。(この表現って知っている事がいいのか?そうでないのか?微妙ですが。。。でも、知らないよりは知っている方がいいに決まっていますよね。)

<三十の手習い>ではないですが、いくつになっても日々勉強。いや勉強はいくつになっても、どこでもできるものと今更ながら思います。(いやいや、思うものだけでなく実践もしていますよ)
人間は、世の中のほとんど(確か97%も。。。だったでしょうか?)を知ってはいないということを以前新聞で読んだ事がありますが、そう考えれば一生貪欲に勉強するべきだと。

ただ、何故に”その後において大なり小なり、よきにせよあしきにせよ”などという微妙な言い回しをしたかというと、知の蓄積は素晴らしいことですが知っているだけでは 人生だめ! という気がしてならないからです。
知っているとは知識にしか過ぎないもので、知恵や判断力や行動がともなって最大限活きるもの、生きていく上での人生にとっての重要な要素だと思うからです。
「三十の手習いの学問は、知恵や判断力や行動力が養われる学問でありたし」 そんな気持ちで勉強している昨今です。


ちなみに知の蓄積(知識)をインプットとすれば知恵や判断力や行動力は、さしずめアウトプットになるわけですが、この[インプットとアウトプット]人生とは。。。のタイトルにおいて重要なキーワードですので、是非念頭においておいて下さい。


話はだいぶそれましたが、もとに戻って、、、


極めて依存性の高い楽観的な意識にあった僕は、ただただ医師に身をゆだねる状態で、その治療は開始されました。


「グッチュ」


右耳の奥からそんな音が聞こえた瞬間、左脳が「痛い!」という言語を発する指令を間違えなくだしているのですが、「痛い!」という言葉が発声できない。。。
声がでない、、、「あー」そんな言葉をだそうとしてもでない。。。


人生で、かなり衝撃的な初めての経験でした。


逸見晴恵さん講演情報


※セカンドオピニオン
(第二の診断)。病気の理解を深めるために主治医以外の意見を聞いて情報収集すること。1.主治医の診断や方針に対する確認ができる 2.治療の妥当性を確認できる 3.主治医の示す治療法以外の治療法が得られる可能性がある 以上3点が効用として考えられる。


2006年9月12日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.3

声が出ない時間は5秒くらいだった、でしょうか。
30歳までの時間感覚で、もっとも5秒という時間が長く感じ、不安でパニクッタ瞬間でした。


「あー」 ”やっと声がでた。”
「先生!!今 右耳の奥でグチューという音が聞こえ、痛みを感じ、声がでなかったですよ!」
「んー何だろうね。今はどう?」
「今は痛みもなく、声もでますが。。。」
「で、あれば問題ないんじゃないかな。まぁ、様子見て何か問題があったらまた来なさい。」


そんな会話をしたことを今でも覚えています。


ちなみに、人生。。。三十路なりたて編 No.1、2もご覧頂いた方は、ここまでの経緯でその医師はどんな治療を施したのだろうか?
とお思いになられた方もいるかと思うので、話は遡りますが説明します。
症状は「耳管開放症」ということで、No.1で記載しましたが、この症状は中耳炎によくかかる人がなりやすい症状で、中耳炎というのは中耳の炎症で、中耳付近が腫れる状態になるのですが、中耳炎が治るとその腫れも引くことになります。それを繰り返しているうちに耳管という耳と鼻の境目にあたる部分が正常の人の管幅よりもひろがってしまい、空気調整が正常でなくなり、あくびや唾を飲み込んだり、時には自然現象で、ダイビングの際によくおこなう耳の空気抜き的な症状が発生するというものでした。


これを緩和するには、耳管付近を通常の管幅にするしかなく、広がっているものを縮めることをしなければならないという理屈なのですが、縮める手段として医師が施した治療が耳管近辺を炎症状態にさせるというものでした。
最初は、長い綿棒に炎症剤をぬり、右の鼻腔から耳管近辺に付着させるという治療をおこなっていたのですが、それも緩和症状のタームがどんどん短くなるので、治療を変えるということになりました。
その治療法というのは、先の長い注射器のようなものに炎症剤を吸い取り右の鼻腔から耳管近辺にその炎症剤を注入するというものでした。
ようは、炎症剤量を増やす事で炎症状態を引き伸ばすという理屈です。


ちなみに、僕はこの一連の説明を医師から聞かされていました。


”理にかなっている”


聞いた時、僕はそう思いました。
(が、ゆえに不安も無く依存性の高い楽観的状態でいられたのでしょうか。。。)


それから、太陽が照りつく中、職場へ戻るころからしばらく顔面右側に違和感を感じていたのですが特に痛みがあるわけでもなく、声がでないわけでもなかったので、仕事を続けました。
今、思い出したのですが1999年6月も下旬の金曜日でした。


2006年9月19日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.4

当時、僕はリクルートグループの人材紹介会社リクルートエイブリック(現在 リクルートエージェント)に在籍をしていまして、治療の後もいつもと同じペースで仕事をしていました。
ただ、仕事をしながら”あの治療の際の痛みと声がでなかったのは何だったんだろうか?”という事が気がかりでしょうがなかった事を覚えています。


が、翌朝も体調は特に悪くなかったので、もうあまりネガティブに考えるのはやめようと思いつつ前々週から実施されていたリクルートグループ対抗の野球大会へと向かいました。
対抗試合は確か14:00くらいからの開始で、6回くらいまでの夕方16:30前後までは軽快にプレーをしていたのですが、その後急に体がだるくなり寒気を感じ、試合を終える頃にはかなりの熱があることを感じていました。


僕は、少年時代から高校まで野球をやっていたのと体型的にも身長178cm体重68Kgなので、まわりから健康優良児にみられるのですが、結構見掛け倒しで年に2〜3回は風邪を引くという人でした。
また、平熱も35度くらいとかなり低く38度も熱がでると、それはそれは体がだるく、中高の部活の際に風邪を引いて熱があるから休みたいと言っても


監督から
「熱は何度か?」


と、聞かれて
「37度です」


と、答えると
「バカヤロー!そんなの熱のうちにはいらねー!」


と、よく言われ何度かへろへろになりながら練習をしていたのを思い出します。


なので、その時も”また風邪か?”と思いつつ足早に身支度をしてメンバーとの野球の後の飲み会も失礼して、一目散に家路へと向ったのですがその道のりも何ともだるい事だるい事。


”これは、結構熱があるなー”


と思いつつ約1時間電車に揺られていました。
家についたのは夜19:00くらいでしたでしょうか。
取り急ぎシャワーを浴び、熱を測ったら40度近い熱がありました。
久々の40度近い熱にビックリしたとともに、とにかく体がだるく意識も朦朧としていたので市販の風邪薬と水を大量に飲み夏だというのにスエットを重ね着し、厚手の布団に包まって寝る事にしました。


いつもだとこれをすれば1日くらいで、熱はある程度引くのですがこの時は違っていました。
翌日になっても熱は40度のままで、天井が回ってみえてくるありさまでした。
あまりに熱が高く下がる気配すらないので、日曜の夜に急患でお茶の水の日大病院へ行ったのですが、とりあえず解熱剤をもらい「しばらく様子を見るように」ということで、その日は診療を終え帰宅しました。


<翌、月曜日>
熱が出てから2日目ですが相変わらず40度の熱です。
これは、耳鼻科に行って診断してもらおうと例の耳鼻科へとタクシーで向かいました。
その間もかなりだるだるでしたが、なんとかその耳鼻科に到着し、、、


「先生、土曜の夜から40度の熱が下がらないんです。。。」

「んー、じゃ、注射をしましょう」
と、いうことでステロイド剤を注射したのを記憶しています。

「これで、しばらく様子をみてみましょう」
先生は、少々不安な様子でした。

「はい。。。」
この時は、もう”はい”くらいしか返答できないくらい朦朧としていました。


そして、その後久しぶりに熱が38度くらいまで下がったので、”これで良くなるかな”と思いつつ寝ていると、またまた夕方に40度に熱が上がっていました。


<翌、火曜日>
また、耳鼻科へ行き注射をうってもらいました。
が、今度はまったく熱が下がる気配もなく次第に喉の廻りが腫れ、水すらも痛くて飲めないという事態になってきました。
この時は丸3日間食欲も無く、ほとんど水やスポーツ飲料水といった状況だったので体力的にもそうとう衰弱していたと思います。
にも関らず、水すら喉が痛くて飲めない。。。熱も相変わらず40度。。。


”これは、変だぞ。。。”


そんなことも思う余裕がなくなっていた僕でした。


2006年9月20日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.5

<翌、水曜日>


この日も高い熱にうなされていたとともに時間が経過するにつれ、なぁ、なんと<唾液が飲み込めない>という状態になってきてしまいました。
<唾液が飲み込めない> という感覚をわかる方はあまりいないと思いますが、汚い話ですが飲み込めない状態で、唾液がでるとティッシュに吐き出すしかないんですが、これをやりつづけると今度は、次第に唾液が粘着性の高いものになり、口の中が渇いて水分が欲しくなるのですが、唾液も飲み込めない状態ですから水も飲めない。。。


せいぜい、うがいをするのが精一杯の状況でした。


そして、夜になると呼吸をするのも喉が痛くで困難な状態になってきたのです。
これには、さすがにビビリました。
呼吸が困難って、結構やばい状態です。
もちろん、この頃になるとまともに話ができる状態でもありませんでした。


うろう、るい、るしい の もだく三重苦状態の中、救急車を呼び根津にある日医大病院に運ばれました。


夜も19:00を過ぎていた頃かと思います。
医師が、応急処置で喉の腫れをとるために麻酔を喉の近辺に注射し、腫れている部分にメスを入れ、血を流すということをおこなうとともに痛み止めと解熱剤の注射をされました。
そして、病室に運び込まれ即入院です。
その後、数時間が経っても状態は何も変わりませんでした。


それどころか、よけいに喉の痛みはますばかりです。
意識も依然もうろうです。


この時僕は、老人1人がいる病室に2名でいたらしいのですが、テレビドラマによくある死を直前に向かえる人の医療機器(心電数?)が、ピッー (2,3秒間隔く) ピッー、ピッーと長い間聞こえていたのを記憶しています。


少々、スピチュアルな話になりますが僕はそれまで霊的な感覚はもとより幽体離脱という状態にも無縁な人だったのですが、この時初めて天井から自分が自分を見ているという体験をしました。
(夢だったのかもしれませんが。。。)
数秒、いや数十秒だったでしょうか?
この時はもう時間経過の認識がありませんでしたからさだかではないですが、ピッー (2,3秒間隔く) ピッー、ピッーという音とともに自分がぐったりしている自分を見ていました。


<翌、木曜日>


様態が、更に悪化急変です。
朝から のた打ち回る 喉の痛みです。


早急に耳鼻治療室に運びこまれ医師が喉を診ました。
結構、長く診てました。
すると、看護婦に何やら話し掛け1、2分すると4名ほどの医師が集まってくるやいなや、順番に僕の喉を診ては、

「ん〜。。。」
「初めて診るねぇ」
「なんだろうねぇー」


と、いう言葉が聞こえました。


僕は、まだ自身の状態を把握していませんでしたが なんと、、、


僕の喉右側は壊死(腐り溶ける)をし始めていたのです!?



2006年9月28日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.6

<同日、木曜日>


その後、診療室からレントゲン・CTスキャン室へ即移動をさせられました。
僕は、激痛をともなうのにもかかわらず意識はもうろうとした中、これはただごとじゃない気がしていました。
レントゲンを撮り、CTを撮り、採血をし、ありとあらゆる検査をしました。
その間、激痛を緩和するために痛み止めの注射もしたのですが、これが意識をもうろうとさせる原因だったのでしょうか、うつろな感じで病室にもどされ、その後身内が医師から呼び出され僕の状況を説明したようです。
後で、身内から聞いたのですが医師の説明は、、、


「右側の喉が壊死しています。日医大 耳鼻咽喉科ではこのような症状は初めて見るもので、今現在においては検査の結果から原因は把握できてなく、効果的な治療を施せない状況です。
取りあえずは、定時に抗生剤を点滴し様子をみるしかないです。。。」


と、いう感じだったようです。


<翌、金曜日>


症状は、悪化の一途です。
痛み止めの薬(注射)がきれると激痛がはじまり、また注射。。。繰り返しです。
更に朝と夕方と夜に抗生剤とブドウ糖のダブル点滴。
また、朝と夕方に採血。
と、注射づけです。
この時、僕ははじめて自身の症状を母から聞いたのですが”なんだ?それは?”という感じで、”いつ治るのか?”という事が気がかりで気がかりで、”これからどうなるんだろう?”という不安がつのりました。

ちなみに壊死は一過性のものではなく進行を続けていたようで、右側の喉とは扁桃腺部分(いわゆる喉ちんこ)右側なのですが、その後(1週間後くらいでしょうか)徐々に頸部にも侵食をはじめていくのでした。


<翌、土曜日>


体調を崩し、まともに食事をしなくなってから1週間です。
ブドウ糖を点滴しているとはいえ、体力的にはそうとう衰弱している状態だったので医師が


「重湯でもいいから食べないと、体力が更に弱まりどんどん症状が悪化するので昼に重湯を食べましょう。」


と、言うのですが、とてもじゃないですが痛くて食べれる状態でありません。
医師もそれはわかっていて、


「食事の30分前にモルヒネを注射します。」


とのこと。


”モルヒネ”?


その時、僕ははじめてモルヒネという存在を知りました。
まぁー端的にいうと麻薬なのですが、痛みを最大限和らげる薬といえば薬という妙な存在ですね。


そして、11:30くらいにモルヒネを注射されたのですが10分もするとちょっと意識が変な感じでした。
目がゆっくりと回り、見えるものがゆっくりと波うつように揺れている、、、昇天していく初めての感覚でした。
その後、口にじょうごを差し込まれ重湯を流し込まれたのですが、<食>とは<人に良し>と書くようにさすがなもので、ほんの少し力がついたような気がしました。


2006年10月24日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.7


それから1週間。。。

様態はいっこうに良くなる気配すらありません。
医師も様々な検査をするものの原因がわからない状態が続いています。
耳鼻科学会で、僕の症状を話しても前例がないとのこと。。。


原因が明確ではないので、適切な治療法についても医師は迷っていましたが、その時はとにかく壊死の進行をおさえることを最優先に最も強い抗生剤の定期投与と痛み止めを投与し、痛みを緩和した際にうがい薬を使ってうがいをするという事をおこなっていました。
(No.6の重湯の流し込みも引き続きです。)


そうこうしている3〜4日後、な、なんと顔が歪みはじめてきたのです。
ちょっと表現しにくいのですが、左右対称に存在するものが対称じゃなくなってきたのです。
また、壊死も依然進行を続けています。


医師からは身内のいる中、、、


「今、私たちは全力を尽くして原因の究明と適切な治療について取り組んでいますが、このままあと2週間壊死の進行が止まらない時は動脈にたどりついてしまうので、その時は覚悟して下さい」


と、告げられました。


”いったい俺は、この先どぉーうなるのかぁー”


2006年11月16日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.8


その後、医師はとにかく原因が何かを把握するために様々な検査をおこないました。
摂取できるもの(血液、唾液等等)はすべて摂取しました。
その中でも口腔内の肉片をとって検査するということをしたのですが、これは麻酔はするものの結構痛かったです。
と、3日後くらいでしょうか、医師が「もしかしたらカビが原因ではないか?」と考えたらしくそれからカビに効果的な抗生剤の投与が始まりました。


1日目、特に変化はみられなかったですがそれからなんと、日々壊死の進行度合いの速度が下がり1週間くらいすると壊死進行が止まりました。
医師からも「取りあえずは安心して下さい」と言われ安堵しましたが、顔の歪みはまだそのままだったのと、ほとんど会話ができないという状態で当時営業職に従事していた私としては社会復帰が心配になりました。
まぁ、死の可能性を告げられたことを思えば心配要素としては恵まれているのかもしれませんが生活ということを考えると結構こちらの方が不安度が高まりました。


それからそうこうしている3日後くらいでしょうか、顔の歪みが正常にもどってきたのですが今度は口がほとんど開かないという状態になってきてしまったのです。
急激な変化で顎のあたりの筋肉が硬直状態になったようです。
また、このころになると熱は以前ほど高くはないのですがまだ37.5度前後の状態が続いていて平熱が35.5度ない僕には相変わらずだるい状態でした。


でも、喉近辺の痛みはだいぶ軽減され、しばらくすると麻酔なしで水が飲めるようになりました。
この時、初めて感じたのですがエビアンを飲んだらめちゃくちゃしょっぱかったのを覚えています。
恐らく、久しぶりに麻酔無しで物を口にしてエビアンに含まれるマグネシウムか何かわかりませんが微量の塩分要素を含むものに過剰反応したのでしょうか。
人間とは、状況によって感覚や感性が研ぎ澄まされるものだという事を感じました。


そして更にそれから3日もすると流動食が食べられるようになり10日後くらいからは、小さく刻んだおかずとお粥程度の食事ができるようになりました。
なぜ?小さく刻んだおかずかというと、この頃口が2cm少々しか開かず小さく刻まないと食べれない状態だったんですが、更に5日もたつとお粥から少々やわらかめの御飯が食べれるようになってきました。


医師もこの時には、ある程度好きなものを食べても大丈夫とのことを言っていただき見舞いに来てくれていた母が、僕の好物のうなぎの蒲焼を買ってきてくれたのですが、それをゆっくりとではありましたが食べた時の旨いこと!!
この時に生きれた事に対してのうれしさとありがたさが混在して、母をにじんで見ながらうなぎを食べていました。。。


今、思うのですがそれからもそうですがこれからもあんなに旨いと思って物を口にすることは、もうないだろうなぁー と思うくらい旨かったです。


2006年11月29日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.9


食事ができるようになってから3〜4日が経つと体調も良くなってきたのですが、熱がまだ37.5度前後あり、平熱の低い私としてはまだ体がだるい状態は続いていたのですが、まずは回復基調にあるということで、心理的には楽になっていました。


ただ、開かない口を「どうしたものかぁなぁ。。。」と思っていると医師がペンチのようなものを持ってきて


「毎日最低でも5分5回、この器具で口を開くリハビリをして下さい」


と、言いました。


最初は、開かない口にペンチをはさみ無理やり口を開けるわけですから痛いのなんのって。。。
リハビリの苦痛というものを経験しました。
ただ、何とか正常にしないといけないと思う気持ちと時間だけは十分にあったので痛みを堪え30分毎に5分リハビリをしていました。


3日が経ち、7日が経つとだんだんと口が開くようになってきたのですが、一難去ってまた一難で、今度は話をする時に右側の扁桃腺辺りの肉ひだが壊死で欠けたことで、濁音が言えない(すずきがすすきになってしまう)のと、普通に味噌汁などを飲んでいる時に少し下を向くと鼻から汁が出てきてしまうという情けない状態が発覚したのです。
鼻から出てくる状態は、飲み込む前にちょっと上を見あげれば大丈夫だったのでさほど気にもしなかったのですが、濁音が言えないという状態は「仕事に復帰した時に困ったことになるな。。。」という不安にさいなまれました。



2006年12月12日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.10


 ”時” とは、早く感じたり遅く感じたりとその都度都度において人の捕らえる感覚を変化させる不思議なものですが、闘病中は何とも時間を長く(遅く)感じていたのですが、病状もよくなり退院日(確か9月4日か5日あたり)まで決まった8月末には、生死に関わる状態であった7月、8月という入院約2ヶ月間があっという間の出来事のように感じられ、いざ退院という段階になるとだんだんと以前よりも時間の進み具合が早く感じられるようになったのを記憶しています。


「人は、時の中で生かされている。。。」


退院後2週間程度まだ自宅療養でしたので、時間は充分にあり、そんなことを感慨深く思っていました。
とは、言うものの退院直後は相変わらずまだ濁音が言えないという状態だったのと、医師から「完治したとは言いきれず、いつか再発するかもしれない」という可能性を示唆されていたので、後ろ向きな気持ちが大半を占めていました。
「自分は、何でこんな病気(というか事故?怪我?)をしたのか?」自分の人生を振り返って考えても真実の答えなどわかりもしないことに自問自答し悩んでいました。(多少やるせない自暴自棄というかうつ状態というか。。。)


が、3日が経ち4日が経ち日を追うごとに
「これではいけない。運良く俺は生きている。考えようによってはついている。そしてこれからも生きなくちゃいけない。生きていくために今できることをしよう。」


と思うようになり、発声練習をし、頭の回転を取り戻そうと好きな歴史小説を読みふけりました。
発声練習は、鏡に向い濁音がうまく言えるよう口の大きさ等をチェックしながら毎日30分を3セット。
読書は、高校1年の冬に読んで私が師と仰ぐ坂本竜馬 「竜馬がゆく」 を読み返しました。


発声練習はなかなか思うような成果がでませんでした(濁音がなんとか普通に言えるようになるのは11月中旬くらいからでした)が、竜馬がゆく を読んでいると高校生とはまったく違う次元で竜馬という人間はもとより幕末を生きた志士達の悲喜こもごもが、染み入るように感じ取れました。


「人にはそれぞれ持って生まれた宿命運命がある。
生きているということは、世の中の何かに必要とされ、何かをするため・残すために生かされている。
俺も何かをするため・残すために生かされている。
何かしよう!いや、しなければ!そう何が何でも!」


そんな思いが沸き立ちはじめたのです。


2006年12月18日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.11

9月も下旬にさしかかり、めっきり秋らしくなった頃に私は社会復帰をしました。
実に3ヶ月ぶりの会社への出社です。
まだ、濁音が充分に発音できない中、”不安” と ”でも、やっていくしかない” という気持ちで会社へ向かいました。
事情は、グループのメンバー・上司含め会社全体が把握してくれていたので、暖かく向かい入れてくれました。
なので、初日からハードワークということはなかったのですが、それでもさすがに会社へ行くと早く仕事における勘を取り戻したい、今までの休暇分を挽回したいという思いと焦りがこみ上げてきたものです。
まずは、それぞれの部署へ挨拶まわりをしました。


「おー!勝彦、元気になってよかったな!」
「勝彦さん、もう大丈夫になったんですかー?」
「災難だったね。。。」


等等、会う人・会う人に激励、心配等々の声をかけられました。
そのたびに僕も話をするのですが、やはり濁音がうまく言えない。。。


相手も話の途中で、それにきずく。
私は理由を説明せずにはいられず、何故濁音がうまく言えないのかを体には脂汗をかきながら笑いながら冗談っぽく話す。


「イヤー、まいりましたよ。へんとうせん の はんふん かぁ えし して うまく たくおん か いえなくて すすき まさひこ に なっちゃうん て すよ。 なんとか かいわ は てきる のと こうやって 右の鼻を手で押えるとちゃんと濁音が発音できるので、仕事上さして支障をきたすわけではないと思うんですけどね。。。ハァッ、ハァハァ〜」


まいった。内心本当にまいった。
社内の気心しれた人たちだから「ぜんぜん、大丈夫だよ!」とは言ってくれるが、営業職としてお客廻りをする時は。。。


どちらかというと、口八丁とはいわないまでも しゃべくり でそれなりの業績を上げていた僕には何ともいえない恥ずかしさと屈辱的な気持ちでいっぱいだった。
何とかしなければ。。。毎日発声練習をしてから10日以上が経つがいっこうに効果はでない。


会社復帰してから3日目、もう時間は待ってくれない。
顧客へも挨拶へまわらなければならない。行かないわけにもいかない。


「ますは、きこころ しれている おきゃくさん の ところへ の ほうもん たから。
ては、いってきます!」
メンバーへは、明るく振舞うものの内心は、かなり憂鬱でした。


9月も下旬だというのにその日は妙に暑い。
変な緊張感というか、受付について受付嬢に自分の名前を言う段階になった瞬間に脂汗が出てきた。
そして応接室につく頃には、もうシャツはびしょびしょだった。たかが1分程度の間に。


「コンコン」
「はい。」
「おー鈴木さん、元気になった!?」
「えー、おかけさま て、なんとか ふし に」

「・・・」

会社復帰の初日と同じことを繰り返した。話せば話すほどに脂汗が吹き出て目眩がしてきた。
目の前が真っ暗になり、気持ち悪くなってきた。


「鈴木さん、大丈夫!」
「えー、たいしょうふ てす。」
「今日は、このまま帰った方がいいよ、タクシーよんであげるから!」


5分くらい経っただろうか、、、
(いや、あの時の時間はすごく長く感じた。人間マイナス状態にある時ほど時間は長く感じるのだろうか。逆に楽しい時は ”あっ!!” と いう間の出来事なのに。なんとも理不尽な気がする。)
タクシーに乗っていた。


これからどうしたものか。。。
タクシーに揺られながらの帰路途中、私の脳裏に ”言葉”  という2文字が急に浮かんできた。



2007年1月26日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.12


”言葉” 
この時初めて人生の中で、その重要性を実感できた瞬間でした。
「意思の疎通」「コミュニケーション」「相手に自分が考える行動を喚起させる」これらすべてに必要不可欠な要素が何であるかを。


もし、このまま充分に話すことができないのなら言葉力を向上させ ”書く” というスキルを高めようと、ふと思いました。やる気がでてきました。
そして、翌日からもボイストレーニングは続けましたが”言葉”いわゆる単語やボキャブラリーをより増やしていこうと思い立ったが吉日、その日からベット横に翌日には会社の机脇に辞書を置き時間があれば、また気になる単語があれば調べるという習慣をつけました。
そして、その単語をもとに文章、短歌、川柳などを書くということをおこない”書く”技術が少しでも向上できればと毎日1時間から2時間くらい時間を費やしていました。
(そのわりに今 書いているブログの文章うまくないですが。。。)


また、四字熟語やことわざなどが学べる本もかなり読みあさりました。
ちなみに私が好きな言葉の1つに「生者必滅 会者定離」というものがあります。
これは多少自滅的なマイナス的イメージをもたれる方が多いかもしれませんが、私にはこれは物の本質を捕らえている原理原則だと思いました。
だからこそ、一瞬一瞬を精一杯生きなくてはいけないと。


そんな日々が続くと今度は言葉・単語の語源や漢字というものの成立ちに興味を持ち始めました。
それを調べていくうちに今度は、すべてに意味があるということに気づかされました。
そう、この世の中に存在するものすべてに意味があると。


人間万事塞翁が馬。鈴木勝彦 まさしく 三十にして(半)立つ。 


孔子が語った時代ですら「人は三十歳になって初めて自己が確立し、独自の立場で思想を語ることができる」というのだから現代人の三十歳で、その半分感覚でも立った気がしたのであれば決して遅咲きでもない。 かなぁー?


2007年2月14日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.13

10月、紆余曲折ありながらも仕事に人生に前向きな気持ちになれてきた時。
幸運にも私は、それまでITグループというIT業界マーケットの人材紹介促進を担当していたのですが、10月から当時目覚しい成長を遂げていたインターネット業界マーケットの人材紹介促進をインキュベートすることになったのです。
何が幸運なのか?それはお読みいただければ後ほど把握いただけるかと思うのですが、当時国内のインターネット業界は目覚しい成長とはいうもののまだまだ黎明期で、企業スタイルは大手IT企業もしくは大手商社が外資系インターネット企業と合弁で日本法人を立ち上げるか、ネットベンチャーのいづれかでした。
合弁会社はバックグランドがあるので、企業把握もしやすいのですがネットベンチャーは海のものとも山のものともわからない企業が多々存在していました。
今でこそ上場している数々のネットベンチャー企業も当時はマンションの一室か手狭なオフィスビルに社員が数名いて、無造作に寝袋を見かけるというようなあり様でした。
ただ、言えたのは社長がほとんど僕と年齢的にもかわらない30歳代が中心であったことと、当時パラノイヤー(偏執狂)という言葉が流行ったのですが、まさに仕事が大好きで大好きでたまらない、寝ている暇がもったえない!!というような人ばかりでした。


なぜか?大きくは3つの要素があったように私は推測しました。


1つめは、先行するアメリカにすでに模範があったのですが、インターネット(特にWeb)という存在が世の中の商慣習や個々人のライフスタイルを本当に変えられると思えるほどの革命的インパクトがあった。
(これは、今になっては事実となっていますね。少なくとも私はそう思っています。)
が、ゆえに自身が世の中を変えられる。いや変えているという感覚がリアルに実感できた。
これは、そうとう面白い感覚です。確かに寝てなんかいられません。


2つめは、大手企業や識者などがマーケットを様子見している中で、それまではそうは会う事がありえなかったような人たちにいとも簡単に会える状況が頻発し、更には電光石火の如くビジネスが、うねりを上げて進行していく感覚とままある現実。


3つめは銀行、商社、VCなどがバンバン投資をしていたのと、これまた先行するアメリカにすでに多数の模範がすでにあったのですが、上場することでのインカムです。
これが当時のアメリカは、まさにネットバブルですから数億いや数十億いやいや人によっては百億単位のインカムを得ているという事実と自分の会社でもその可能性を充分に感じられた感覚。


この3つが志、野心、欲いづれか1つでも持ち合わせている人間に目の色を変えさせて仕事をさせる”源泉”今でいうモチベーションだったと思います。


まさしく幕末的な時代背景を感じたのを強く覚えています。
また、同年代の社長役員クラスに幕末、特に坂本龍馬好きが多かったのも偶然ではなかったのかもしれません。
私も良くも悪くも刺激されました。同年代がこんなにも良くも悪くも燃えている。
そして、彼らは異口同音にビジネスモデルはある、金もある。無いのは人材だと。


私は、短期間にこの業界に多数の優秀な人材が流入するであろう可能性を感じたのと、そして私がそのスキームを創ってやろう!と。


この少し後からでしょうか。上司から同僚から「勝彦?どうして、急激に人間がそんなに豹変したんだ!」と言われるようになったのは。。。
でも、刺激的でエキサイティングで本当に面白い日々でした。


2007年2月27日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.14

11月中旬になりそれまでの発声トレーニングのかいもあってか、タイミングよく濁音発音がやっと普通に発声できるようになりました。
インターネット業界マーケット担当になり早1ヵ月半、インターネット会社の社長をはじめ多くの方々にお会いして、マーケットリサーチをしてきました。
そこでマーケットの特性や課題を整理し、短期間で多くの優秀な人材をインターネット業界へ流入する企画を考えました。


この時の私は、インターネット会社の社長同様本当にパラノイヤー的感覚で、いってみればアドレナリン(正確にはドーパミン)大放出的な状態だったような感覚で、本当に寝るのがおしい というか良くも悪くも”悦”な感覚で、寝れない日が多かったです。
(まぁ、眠い時は昼間ちゃんと寝てましたが。。。
そういった意味では、当時私はいわゆる模範的な会社員ではなかったかもしれません。。。)


でも不思議とマイナス的な要素(ストレスや疲れ)は、まったく感じなく、むしろ心も体も絶好調!
で、家に帰るのはほとんど25時以降、夜床に入って寝てても夢でアイディアが浮かんできて、明け方に目がさめて始発で会社へ行っていたというような日が結構ありました。


人間、自己実現のために情熱を持ち自己実現したいことに使命感を強く感じ(使命感に燃え)、自身も含め 人に 世の中に 便益をもたらすものという確証が持てると、ものすごい力(エネルギー)を発揮するものだと思いました。
人と会う数(会う人のレベルも高い)も格段に増え、いろいろな情報が飛び交い、それがまたアイディアにつながる。
まさにエネルギーが人や物を引きつけ更に新たなエネルギーが放出され更に人や物を引きつける。
当時、メンバーが3名いたのですがそのメンバーもエネルギーを持っていたので更に得るものが3倍、9倍になる。
さしずめ”上昇スパイラル”という感じでした。


具体的に実施した企画内容(12月〜翌年4月の5ヶ月でストーリーを持たせ計6企画)は、かつあいしますが後輩から聞くには今でも良くも悪くも伝説になっていると聞きます。
(今でも仲の良い後輩のコメントなので、本当かどうかわかりませんが、、、)
まぁ、当初の目標もクリアし関わるメンバーやお客さんに


「充分な精神的・物理的・経済的な便益があった」


と、言われましたから嘘ではないかなぁー と思っていますが。。。


ただ、何か新しいものを形にするということは賛同者ばかりでなく常に否定者というか、もっというと抵抗勢力という人たちが存在するものだという事を学びました。
時間的な問題などもあり、どうしても荒っぽく仕事を進めざるえない状況で、非難されることは覚悟の上でしたが結構幾人かの上役に叩かれました。。。
でも、協力して頂いた上司や先輩、後輩がいてくれたのは本当に涙が出たくらい嬉しかったのと、頑張れる、やり抜けられる原動力の1つになりました。


そんな環境の中で、この期間に私が最も大きく学んだ事があります。


それは、”主張する” ということです。


それまでの私は、どちらかというと調整役というか、かなり協調性の高い人間で、自分が妥協して周りが、事が、まとまるなら 「それでいい」 と いう考え方の人間で、1期下の人物評論が好きな後輩が、 その後輩の同期に「勝彦さんという人は、バランスの人だ」と言ってたくらい周りとの調和をうまく取っていた人間だったのですが、それがこの11月下旬から12月初旬にかけてNo.13でも書いたように 「人間が豹変した」 と言われ始めたのです。
それは、ある先輩から今の勝彦は


「言い争ってでも持論を主張し始め上司がどう評価しようが周りからどう思われようが、目的の実現のためには手段を選ばないからだよ」


と、言われました。


その時の私は、それでいいと思いました。
(ここ最近は、主張しつつもいかにして賛同者を増やすかという発想で少々大人になりましたが)
どんどん主張して、自分が正しいと思うことをやっていこうと思いました。
そのかわり、絶対に成果をだし成功させるという強い信念と実行力が持て、度胸というか腹をくくれる気持ちが持てて肝がすわりました。


主張するということは、人間を大きくします。


責任を背負い実現させていくプロセスで、様々な苦悩葛藤があります。
そして情を感じられる喜びもあります。(本物に取り組んでいると必ず賛同者がつくものです)
それを乗り越えていく事で、人間がひとまわりもふたまわりも大きくなります。


そして、主張している内容と形になったものが本物であれば結果的に多くの人に(否定的な人たちも考えと行動が変われば)大なり小なりの便益を必ず寄与できます。
私がそう言い切れるのは、すべからず歴史がそうだからです。原理原則です。
だから、自分が主張している事、形にしたい事は本当に 


”世のため 人のため 自分のため”(=正しい ・本物) か?


と いうことを考え抜いて主張しなければなりません。
そして、それを実行して主張している事が具現化できると更に人間が大きくなり、吸収する力、そしゃくする力、アウトプットする力が格段に向上します。
(ただ本物の主張ができるようになるためには、それなりに自分自身でも日々能力に磨きをかけなければなりませんが、これも人間のスキルを高めるということにつながり、ひいては人間を大きくします)


この”主張する”ということは、弊社社員にも常々言っています。
どんどん、主張してもらうことで多くを学んで欲しいと思っています。


そして話は戻りますが、そんな大事な事を学ばせてくれ、更にはなんだかんだありながらも企画を実現させてくれた上司、先輩、同期、後輩に本当に感謝しています。
この場をかりてで、済みませんが本当に ありがとうございました。


そして、そんな中 4月中旬に久しぶりに弊社社長の渡邊陽一さんと会うのでした。


2007年3月 7日

人生とは。。。三十路なりたて編 No.15

渡邊さん(この時はまだ違う会社なので、それを基準にあえて渡邊さんと記述しています)
に会うのは、私が入院している際にお見舞いに来ていただいて以来なので約8ヶ月ぶりになりますが 実は学生時代からの付き合いで、学生当時9名で企画サークルを運営していまして、渡邊さんが代表私が催しの企画や構成などを考える担当で、当時は違う大学にもかかわらず最低でも週に4日は会っていたという仲でした。


当時は現在放映されている「バブルへGO!」という映画のバブル全盛期と同じ1990年。
(先日、「バブルへGO!」観たのですがかなり面白かったです。当時の時代風景が滑稽的によく描写されていつつも、バブル的行動を現代に煽るわけでもなく、むしろ「あの時代をアンチテーゼとして現代を考えよう」というようなメッセージが感じられる単なるコメディー映画ではない作品でした)


世の中全体が有頂天ながらも勢いがあった時代でした。
”やりたい!”と思う事が実現できる可能性の高い時代といってもいいかもしれません。
(世の中面白いものですが、世の中の状況が極度に高・低どちらかになるとそういう世の中になるもので、中途半端の状態だとやりたいことがなかなか実現できないといったケースが多いように見受けられます。守りに入るのでしょうか?人間は?)
私も、 ”同じ阿呆なら踊らにゃ〜損損” タイプなので渡邊さんと運営していたサークルでいろいろな事を企画して実行しました。
その分大学の勉強では学べない社会と人について良い経験と勉強をさせてもらいました。
ちなみに私の学生時代の専攻は、農獣医学部でしたので本当に別世界でした。


そんな間柄の二人ですが、大学卒業後は渡邊さんはマスコミ(新聞社)へ私はリクルート人材センター(現リクルートエージェント)へ入社し、それぞれの道をしばらく歩むわけですが、その後1995年に渡邊さんは若くして起業し、ペルソン&ペルソンエンターテインメント有限会社(現株式会社ペルソン)を設立し、いくつかの業態で会社を切り盛りしてきて会社設立5年を経て、とあることをキッカケにインターネットを活用した講演ビジネスを構想するのですが、この時会ったのはその インターネットを活用した講演ビジネス の相談でした。
マッチングビジネスという観点においては、人材紹介と同じ業務フローが当てはまるので渡邊さんの話を聞いてすぐにビジネスモデルは理解でき、仲介業の存在意義を身をもって知っているだけに充分なりたつビジネスだと思いました。
ただ、当時まったく同じビジネスモデルで競合が存在しないという状況で、どの程度のマーケットが存在するのかが少々未知数で、そこが一抹の不安材料でしたが、とても面白いビジネスだと思ったのと何よりも渡邊さん向きなビジネスだと思い、ビジネス成功に向けて私なりの意見を伝えたのでした。


これをお読みの方は、これを境に鈴木がペルソンにジョインしたのか?とお思いになるかと思いますが この時はまだ さにあらず で私は当時Webの制作とマーケティングに強い興味と関心を持っていまして、7月にリクルートエイブリック(現リクルートエージェント)を退職し、お互いが2年6ヵ月後の2003年1月から一緒に仕事をするであろうということは、当時お互いが想像だにすることもなく、私はWeb制作とマーケティングの仕事に従事し、渡邊さんは 「講演依頼.com」 の立ち上げに奔走していくのです。


2007年3月 9日

人生とは。。。三十路中盤へ編 No.16

時は流れて、2001年9月11日夜。
2日前の9月9日に私は、私が最も尊敬し憧れる坂本龍馬が亡くなった(暗殺された)歳と同じ33歳になっていました。
※ちなみに龍馬の命日は11月15日で、誕生日でもあります。んー、感慨深い。。。


誕生日から3日間生死についてなんとなく考えていたところ22:00くらいに帰宅をして、テレビをつけるとものすごい光景を目の当たりにしたのです。


そうです、9.11 アメリカ同時多発テロ事件です。


はじめは、映画でもやっているのかと思いましたがチャンネルを変えても変えても同じ映像が報道されているので、これはすごい事件だと かじりついてテレビを見入っていました。
最初は、みなさんもまだ記憶にあると思いますが世界貿易センタービルへ飛行機が衝突する上空からの映像がほとんどだったのですが、時間の経過ごとに映像が街並みや人にクローズアップされてきました。


その様子たるやは、みなさんも充分に想像できるかと思いますので割愛しますが、凄まじい光景をブラウン管というフィルターを通してではありますが、リアルに人の生き死にを目の当たりにし私はあることを確信しました。


”本当に自分もいつ死ぬかわからない、万物は人生は生命は有限だ。
2年前に生き死ににかかわる入院をし、運良く生きれた自分もいつかは死ぬ。。。” と


そんなことを考えていると、ふと退院後に思った


「人にはそれぞれ持って生まれた宿命運命がある。
生きているということは、世の中の何かに必要とされ、何かをするため・残すために生かされている。
俺も何かをするため・残すために生かされている。
何かしよう!いや、しなければ!そう何が何でも!」 (人生とは。。。三十路なりたて編 No.10)


という気持ちがメラメラと湧き上がってきて、


”死というものを茫洋とさせていてはいけない!では、自分はいつ死ぬのか?
そんなことは誰にもわからない。。。けど、明確にしたい!どうにか自分が納得できる何かはないものか。。。”


すると、自分の人生を振り返って誕生から考えると10年良くて10年良くない、次に5年良くて5年良くない、次に2.5年良くて2.5年良くない、次に1.75年良くて1.75年良くない、、、
と、いうような人生サイクルのように思えてきたのです。
そして、当時33歳の私がこのサイクルを続けていくと限りなく0に近づく歳が42歳だったのです。


42歳、そう男の厄年、本厄です。
その瞬間、妙に納得して思いました。


”自分が死ぬ歳は42歳にしよう。とすると、自分の人生はあと9年。のほほ〜ん とは生きてられない!
やりたい事を精一杯やろう!後悔したり、思い残す事の無い人生をおくろう!”


9月12日明け方。徹夜して見ていたテレビを止めベランダにでると真っ赤な太陽が目の前にありました。
私は、無性に走りたくなりジャージに着替え近所の隅田公園を走り回っていました。


ちなみに以前この話をある友人に話したら


「多少、自虐的発想じゃない?」


と、言われました。


でも、先ほどのサイクルには”希望”があって、そのサイクルを続けても限りなく0には近づくものの永遠に0にはならないのです。
これ、私にとっては涙がでるくらいにとてつもないことを発見したような気分でした。


2007年3月23日

人生とは。。。三十路中盤へ編 No.17

更に時は流れて、2002年10月も半ば。私は34歳になっていました。
1年1ヶ月前の9.11 アメリカ同時多発テロ事件以来 仕事に遊びに 遮二無二生きてきた私が更に大きく変化したのは、感性というものでした。


以前の私は、楽しいことのみが大好きで、できればいつでも笑って過ごしていたいという超楽天的人間で、ものごとに感動をしたりとかのいわゆる喜怒哀楽が希薄な人間だったのですが1年1ヶ月前の9.11 アメリカ同時多発テロ事件以来、様々なシーンで感動したり涙したり笑ったり怒ったり哀しんだりという喜怒哀楽の表現が激しい人間になっていました。


別段悪いことだとも思っていないので、今だにそうですが自分で何故ゆえにそうなるのかを思うと見るもの・聞くもの・嗅ぐもの・味わうもの・触れるものといった五感が昔より徐々に敏感になってきているような気がします。
何故か? それは、うまいことの説明ができないのですが五感で捕らえた対象事象に自分なりにストーリーをイメージしたり、何故そうなるのか?だぶんそれはこうだから。。。というような機微を感じられる イメージできる ようになってきたからだと思います。
いわゆる、第六感的なものというのでしょうか?


また、よく書籍や雑誌で人の能力を高める重要要素に ”感性を磨け” ということを見かけますが、この”感性を磨く” 一番の方法は私が33歳からそうなった 物事や事象に対して 何故?何故そうなるのか?どうして、そうなのか?ということからのスタートがすべてのように思います。
そして、次に自分なりに「たぶんこうだから。。。」というような仮説や物語(ストーリーやヒストリー)をイメージというか創ってみる。
そして、その仮説や物語(ストーリーやヒストリー)をできる限り検証してみる。
そうすると、だんだんと好奇心が勝ってきて知りたい欲求が高まる。                     


この状態になると自然と思考の回路が、五感対象(もしくは経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証 の サイクルになっていき人間の良さや醜さが実感でき、またそれを受け入れられるようになり更に深層心理が察せられる力がつき、物事の本質を見抜く力も養なわられ、徐々に万物の原理原則がわかってきて感性というものが少しずつ研ぎ澄まされていくように思います。
また、五感対象(経験対象)とは実は生活しているあっちこっちに存在していて、見過ごすか五感対象(経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証という行動ができるかは本人がまずは、五感対象(経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証をしていこうという自覚と意識を持って物事を捕らえられるかにかかっているかと思います。


私は、感性とは物事を捕らえるキャパシティーの広さ、自分なりに想像(妄想もあり)できる力が豊かか否かだと思います。
あとは、それが当っているか間違っているかはセンスにもよりますが、五感対象(経験対象)⇒何故⇒仮説⇒検証の経験量や数が多ければ多いほど当っていく可能性が高められるものだと思います。


話は長くなりましたが、そんな私が2002年10月半ばに自分で選んで2年4ヶ月邁進して取り組んでいたWeb制作・マーケティングという仕事に壁を感じていました。
その壁は、私はそもそもリクルート人材センター(現リクルートエージェント)という会社を選んだのもそうなのですが、基本自分軸は「ヘルシー」「ハート」「ファミリー」が豊かに満たさせることのできる商品もしくはサービスを世の中に提供できる仕事をしたいという考えで、就職活動途中にその商品もしくはサービスが何なのか見失い、縁あってアルバイトをしていたリクルートであれば探せるのでは?という理由(他にもいくつか選んだ基準や背景はありましたが)もあり様々な会社を知れ勉強できるリクルートグループのリクルート人材センター(現リクルートエージェント)へ入社(何故リクルートではなかったのか?それはリクルートは不動産、ファイナンス、車、旅行など人材以外のサービスも展開していて、どこに配属されるかはわからなかったからです)し、さらに2000年7月にWeb制作・マーケティングが「ヘルシー」「ハート」「ファミリー」を豊かに満たさせることのできるツールであると思い、その仕事に従事したのですが、これが企業等からの各種団体からの請負での仕事なので理想の追求と現実の生活とのシーソーでバランスが自分の中でうまくとれなくなり、またマーケット的にもかなり値崩れを起していて、生産性のよくない仕事になり思い悩んでいました。
そんな中、”「ヘルシー」「ハート」「ファミリー」を豊かに満たさせることのできる” を 変えずに更に自分自身の強みや能力、したいことは何なんだろうと考えていると、”表現する” ということにたどりつきました。
そんな最中、人のめぐり合わせとは面白いもので2002年11月あたりから とある人を媒介(失礼な言いかたで恐縮です)にまたまた渡邊陽一さんと会うことになったのです。


2007年3月26日

人生とは。。。三十路中盤編 No.18

2002年11月から渡邊陽一さんと数度会い話をしていく中で、私は改めて講演ビジネスの面白みと社会的意義性を感じるとともに将来的に多様な媒体を屈指して私が取り組みたい”表現する”という仕事が間違いなく実現できるという思いと、今までのビジネス経験が十二分に活かせるという自信と何よりも渡邊陽一さん=株式会社ペルソンの理念である

―価値観の伝達―
我々の仕事は様々な価値観の伝達をすることです。
世の中には様々な価値観が存在しています。人間が成長していく上で大切なのはどれだけ多くの価値観に出会え、そしてそれらの価値観をどれだけ素直に認められたかにあると考えています。町角の、普通なら見逃してしまいがちな人物の価値観が、人生を大きく変えてしまいかねないとも限りません。我々はこのような見逃してしまいがちな人物の価値観まで焦点をあてていくことを心がけています。


に共鳴し、2003年1月1日付けにて株式会社ペルソンへ入社をする運びとなりました。


2007年1月段階で満4年の在籍になりますが、講演を通じて様々な講師及び講演主催者様にお会いをさせていただき、こんなにも自分にとって天職と思える仕事は間違えなく他には無い!と思い、また私という人間はこの仕事を成すがために生を受け、これからも生かされていく人間なのだと実感できる程自分向きな仕事だと自負しています。
今は渡邊・私鈴木を含め15名の所帯で、優秀(ポテンシャルも勘案して)なメンバーとともにより多くの−価値観の伝達−を講演(及び講演依頼.com)というシーンや媒体を通して世の中に提供させて頂いています。


”やりたいことが仕事というシーンで、十二分に行え続けられる”


私にとってこんなにも幸せな人生は無いように思えます。
これから(2007年4月以降)の私とペルソンについては、No.21か22あたりからブログしていきたいと思っていますが、人生とは一寸先は闇 と、いうように山谷あるものですが、ペルソン在籍約4年3ヶ月もすべてが順風満帆というようなものではなく、これからおこる出来事はすべて自業自得が招いた事件なのですが、、、今 振り返り自分への戒めと、この「人生とは。。。」を綴っていく上で外せない経験なので執筆します。


それは、ちょうど2年前の2005年3月26日(土)。
諸事情で1月半ばから激務につきほとんど息抜きもしていなかった私は、10期目標達成の見通しがついた3月25日金曜の晩に友人の誘いもあり、21:00あたりから久しぶりに数名でおいしくお酒を飲んでいました。
かなり場は盛り上がり2次会、3次会、4次会へと。。。
お酒が入るとついつい調子にのってしまう私は酔っ払いを通り越し酩酊状態になっていました。
最終的に翌26日(土)6:00くらいに赤坂9丁目あたりで友人数名と別れ、1人タクシーを待っていたのですがタクシーが なかなか来ずフラフラと歩いていたのです。
この辺りからこれからおこる事件までの記憶はまったく無いのですが、その後(7:30前後)私は銀座線渋谷駅浅草行きホーム 際 を千鳥足でフラついていたのでした。


2007年4月 5日

人生とは。。。三十路中盤 No.19


「痛ってーーー!!」


気がつくと線路が見えました。
そうです。ホームから意識なく線路へ転落したのです。
”はっ!” と 電車がこないか右左を確認しました。幸運にも電車は見えませんでした。
右ひじに激痛を感じながらも”とりあえず助かった” と 思い、立ち上がろうとした瞬間 腰まわりに激痛が走りました。
とてもじゃないですが立ち上がることのできない私は大声で、「痛ってーーー!!」と叫びました。
すると、ホームから


「線路に人が倒れてるぞー」


という声が聞こえました。
とりあえず”助かった”と思いました。
すると、何人かさだかじゃないのですが数名の方々が線路からホームへ私を引き上げてくれました。
顔も名前も覚えていないのですが、本当に助けて下さった方々へお礼申し上げます。
ありがとうございました。


私は、ホーム奥で立ち上がることもできず横になったまま駅員の方に付き添っていただき救急車を待っていました。その間の右ひじと腰まわりの激痛ときたらそうとうなもので、骨が折れるとこういう現象があるのかと目の当たりにしたのですが、右ひじが自分の意志ではなく勝手に動いていました。
15分、20分いや30分程経ったでしょうか。。。えらく時間が長く感じました。
すると、救急隊がやってきてタンカーに乗せられ銀座線渋谷駅ホームから南口へ出て救急車へ移され広尾病院へ連れていかされました。
その間、前日のアルコールのせいもあるのか怪我のせいもあるのか、ものすごい喉の渇きを感じて水を飲まして欲しいと激痛にうめき騒ぎながら懇願していた覚えがあります。


そうこうしているうちに広尾病院へと到着すると緊急処置の必要があるとのことで、洋服をハサミで切り取られ右ひじを医師がみて、


「すぐ手術をします」


と、言われました。
その時に右ひじの状態について医師から説明を受けた記憶はないのですが、後日右ひじが開放粉砕骨折ということを知りました。
ちなみに何故ゆえにすぐに手術をしなければならなかったか?というと開放粉砕状態なので8時間以上開放した状態で放置しておくと菌が付着して骨に菌が入り込む可能性が高くなりその後手術しても一生薬を飲みつづけなくてはならないはめになるとのことでした。


ここで、私は不幸中の幸い(と、いうか 電車がこなかったこと、頭を打たなかったこと等転落した時から不幸中の幸いは始まっていたのですが)とめぐり合います。
それはたまたま手術室が空いていて、かつ手術ができる外科の先生がいたのです。
日によっては、どちらかがダメもしくは両方ダメという時もある中で運がありました。


手術をするにあたり麻酔を投与するのですが、その前に看護婦さんにどうしても水を飲まして欲しいとお願いしたのですが、、、


「これから手術だから飲ませられない」 と言われたので 「じゃ、うがいだけでも」と いうことで水をもらい、うがいをして飲んじゃいました。(看護婦さんには結構マジで怒られました。。。ちなみに入院中もその看護婦さんが私の担当だったので、しばらく問題を起こさないか目をつけられていました。)


その後全身麻酔を打たれたのですが、麻酔の威力はすごいもので あっ! というまに記憶がなくなりました。
気がついたのはその日の夜7時とかでしょうか。まだ意識はもうろうとしていたのですが身内が見舞ってくれていたのを覚えています。
翌日、手術が6時間かかったことを聞きそしてこれからレントゲンとCTで腰まわりを撮影することを看護婦さんから聞かされました。
レントゲン・CTの結果は、右骨盤骨折でした。
これは、骨折の部類でもなかなか重症度が高く、かつ手術が結構大変な箇所だったらしくもろもろの諸事情で手術は3日後の3月30日水曜日ということになりました。
その間は右ひざお皿辺りに針金を貫通させ足を伸ばして十数キロのおもりで引っ張るという状態でした。(右ひじは右ひじで棒状のものに引っ掛けられていました)
ただ、麻酔や痛み止めや抗生剤等のチャンポン投与で意識がさだかではなくほとんど寝ているか、起きていても意識がもうろうとしていた状態でした。


そして、3月30日(水)朝またまた全身麻酔を打たれ コロッ と記憶を失いました。
手術は12時間以上にもおよぶものだったのですが、無事成功しました。
ちなみに目がさめたのは翌31日(木)の昼間で、やはり意識はもろうとしていました。
木曜日は、うっつらうっつら な状態だったのでほとんど記憶になく翌4月1日金曜日にある程度意識が回復しました。


2年前の4月1日エイプリールフールだからではないですが、この日の夜から翌朝にかけて私は不思議な体験をしたのです。


”人間の体とは時として超常現象的な感覚をもたらすものだ”


と、いうことを実感した出来事でした。


2007年4月19日

人生とは。。。三十路中盤 No.20

4月1日金曜日20時30分くらいだったでしょうか、抗生剤投与の点滴をされたのですが抗生剤という異物が体の中を循環し、それが膀胱へといきつきもう少しすると間違えなくおしっこをするという感覚を持ちました。
その時、身内と友人がいたのですが、その時の感覚を話して


「もう少ししたらおしっこがでるから尿瓶を用意しといて」


と言いました。
(何故ゆえに尿瓶か?というと骨盤の手術をして1ヶ月間ずぅーとベッドで寝たきりにしていなければならなかったんです。。。。。身動きをすると骨盤がまたクラッシュしてしまうので、まったく微動だにも動けない状態でした。これってかなり苦痛です。)


散々体に麻酔だの抗生剤だのの異物を注入され体が拒絶反応を起こしたのでしょうか、確実に体が異物を吐き出そうとしていました。
案の定10分程経ち点滴もそろそろ終えようかという時に点滴投与量と同じ量くらいのおしっこがでて身内や友人が驚いていました。(それが、ほぼ抗生剤成分だったか否かはもうわかりませんが調べてもらえばよかったと思っています)


その後まだうつろうつろな状態で21:00過ぎに一旦眠りにつきました。
そして、時間は何時だか覚えていませんが夜中も3時くらいでしょうか、ものすごい喉の渇きで目がさめ看護婦に備え付けの冷蔵庫にある500mlの水をとってもらいがぶ飲みしたのですが、まだまだ足りず2本3本と立て続けに飲んでは、おしっこをし、更に2本3本と飲み、おしっこをし、、、、を何時間か繰り返していました。
意識としては、少々何かにとりつかれた状態でこれを続けると体内が綺麗になり早く治るというような思いでいた記憶があります。
また、その時深呼吸をすると妙に意識が冴えるというか覚醒され、ゆるやぁかぁ〜な感覚がありました。
相当に神経が過敏な状態だったと思います。


ただ、今思えばですがよく落ち着きたい時には深呼吸したり水を飲めと言いますが本当にそうだと思います。通常の神経の時にはあまりそれをしても感覚的にあまり実感できないでしょうが、この時はそうとうにゆるやぁかぁ〜な感覚気分でしたから。(幻覚症状だと思いますが。。。)


そうこうしていると、明け方に骨盤が良くなっていると錯覚した意識になってしまいベッドの上半身部分をリモコンで、徐々に上げたり下げたりし始め更に時間が経つごとに上げる角度を20度、30度、40度、50度と上げたり下げたりしていました。


”これで痛くなかったら治っている”


そんなありえないことを思い何かにとりつかれたように繰り返し繰り返しやっていました。
(どういうわけか痛みはまったく感じなかったので)
そして、看護婦が朝食を持ってくる時間ですから8:00くらいでしょうかほぼ直角状態のベッドで膝を抱えていた僕を見て看護婦が、ビックリしてリモコンでベッドを水平にしようとするのを僕は「止めろ!」と怒鳴った記憶があります。
それでも看護婦はもちろん水平にするのですが、水平にしたとたん自身の意思ではなく勝手に体が動き始めてブレイクダンス的な動き(今 思えば笑い話ですが本当にちょっとした上半身ブレイクダンスだったと思います)をしたり寝返りを打ったり立ち上がろうとしたのです。
私自身そうとう怖くなりました。
意思に反して体(上半身)がブレイクダンスをするような動きをするのですから、そうとう怖かったです。
看護婦もそうとう驚いた様子で大声で医師や他の看護婦を呼びました。
小走りでやってきた医師と他の看護婦もそうとう慌てた様子で


「鈴木さん落ち着いて下さい!動かないで下さい!」
と、言うのですが意思に反して動くものですから止めようがない私は


「勝手に体が!」
といった矢先に寝返りをうとうとする私の手足や胴体を医師や看護婦(4名、5名はいたでしょうか)が羽交い絞めに捕らえられて、医師がすばやく注射をしたのです。(恐らく安定剤だと思います。)


この数十秒は本当に怖かったです。
初めて、いい大人が涙しながら「死んじゃう、俺 死んじゃう、助けてぇー!」と叫んだのですから。
その後ものの数十秒でしょうか、気を失いました。


2007年5月 2日

人生とは。。。三十路中盤 No.21


寝ている間3つ程の奇妙な夢を繰り返し繰り返し見ていたのを今でも覚えています。
内容はサザンオールスターズの「勝手にシンドバット」のBGMが流れる中、何故か私が加藤茶のメガネステテコ姿でリアカーを引きながら酩酊状態で長い階段を登ると、いかりや長介の唇が厚い漫画顔の丸い扉があり、扉を開けると宇宙のような空間が広がっていて、階段から落ちそうで落ちない状態が数秒間あり、「だめだこりゃー」の声がした瞬間に階段から落ちると地球が爆発してしまう夢、次は病院内を浮遊して地下に行くと霊柩車と喪服の身内が立っている夢、すっかり骨折が完治していて海と砂浜の綺麗な海岸を走っている夢でした。
後日看護婦から聞いたのですが、気絶して10分くらい何かうわ言を言いながら半笑いでいたそうです。


そうこうしていると、緊急治療室みたいなところでベットの手すりに両腕を縛られ寝ている僕を看護婦や身内が顔を覗き込み僕は「水、水」というのですが、看護婦は「水は飲ませられない」と言ってその場からいなくなり、身内もいなくなるというような夢とも現実ともわからない絵図らを繰り返し見ました。


多少なりとも意識が回復したのは夕方4時半くらいだったでしょうか。
代表の渡邊と4月1日から入社した新メンバー2人がお見舞いに来てくれて、しっかりしなければとの思いで挨拶程度をしたのを覚えています。
その後はまだ意識がもうろうとしていて、翌日曜日もうつらうつらしていました。
月曜日にやっと正常に近い意識状態になり、医師から


「レントゲンをみると暴れたことで骨盤のつなぎ目が少しずれてしまっているので、もしかしたら一生松葉杖を使っての生活になるかもしれない」


と言われたのですが、言われた時は少々ショックでしたが元来私という人間は楽天家なんでしょう、”なるようにしかならない”という感じで、むしろ命が助かったことや頭を打たなくてよかったと思っていました。


”また、命拾いした” そんな思いでした。
ただ、考えてみれば30歳の時の病気、転落事故が36歳と6年周期でよからぬ事が身に降りかかるので、「2度あることは3度ある」にならないように本当に42歳の厄年は気をつけないとと思いつつ自分の人生の区切りを42歳でつけているのも奇妙なもんだなぁーと感慨深い思いでいました。


それから寝たきりの1ヶ月が始まるのでした。。。


2007年5月18日

人生とは。。。三十路中盤 No.22

病気ではなく怪我で寝たきりの状態とは、何とも精神的にも肉体的にも苦痛な事でした。
ただ、考えたり物思いにふけるには有り余る時間を与えられたので、この寝たきりの時に改めて人生とは何か?ということを考えていました。


考えていた時ふと、とある書籍の一文を思い出しました。


− 人生とは、生まれて生きて死ぬこと。
   そして、生まれた時を記憶することと、死ぬことを経験することはできない。 −


言われてみると当たり前のことですが、すごく感慨深い内容です。
そして私は、思いました。


”経験して記憶に留めておける唯一の期間は 生きている 時だけなのと、また人は”世のため人のため自分のために世の中に存在する”という考えを持ってすれば、たくさんの経験とたくさんの記憶を世のため人のためになる価値ある概念や物質創造に変換し、それを世の中にそして人々に適切に表現・伝達し、経済的交換をし、寄与していくという活動こそが人生だと”


そして、こんなフレーズを自分で作ってみました。


− 人生とは水面(みなも)漂う葦の如き、が ゆえに人間は考える −


”退院したら今まで以上にたくさんの経験をし、たくさんの記憶を留め、たくさん考え、たくさん行動実践していこう。今は、そのための充電期間かな”


すべては、気の持ちよう そう考え方しだいだ。


2007年6月21日

人生とは。。。三十路中盤 No.23


2005年6月中旬、2ヶ月半の入院を経て無事退院できることになりました。                
4月の1ヶ月間は丸々寝たきり、やっと5月初旬に車椅子で移動ができるようになり、苦痛のリハビリの日々を過ごし、そして6月に松葉杖を突いて歩けるようになりました。


入院中のリハビリで、思いで深いことがあります。


私のリハビリの先生なのですが、盲目の方で20数年前に視力を失ったとのことでした。
驚くことはその先生は、視力を失うころにリハビリ指導の勉強をし資格を取得し今日に至るのですが、目が見えない分、他の感覚が相当に研ぎ澄まされているようでした。
特に触れることで状態を判断する力たるや通常の人間にはない力があったと思います。
私は今までの人生、比較的運がいい方だと思っているのですがこの時もこの病院でこの先生に出会えたことに運がよかったと思います。
的確なリハビリ指導をしていただいたおかげで医師からも驚かれるくらいの回復だったのですから。
でも、心底思いましたね、、、人はそれぞれに活躍の場があるものなんだと。
そして、私はその先生とのふれあいの中で人生において大切なことを知りました。


それは、、、


”意志を持ち、それに向って直向に取り組む” 


ということでした。


6月30日(木)まで自宅療養した私は、いよいよ3ヶ月と1週間ぶりの社会復帰を7月1日(金)にするのですが当日の朝は、妙に「早く、あれもしたい!これもしたい!」というやる気に充ちた気分でした。
(なんたって、自分の活躍の場ですから!)


2007年6月29日

人生とは。。。三十路終盤編 No.24


ブログを書き綴るようになってから早10ヶ月と少々。
十月十日(とつきとうか)も経とうとしているので「人生とは。。。」は今回のNo24を最後にしたいと思います。


さて、全24回にわたり私の30歳代を書き綴ってきたのですが、私という人間を少しはイメージしていただけましたでしょうか?
今年の9月9日で39歳になり、そろそろ不惑の40歳を向える年齢になりました。


補足ですが、私の好きなもの(趣味)をお伝えしますと。。。


寿司、焼肉、旅行、温泉、サウナ、お酒(特に焼酎。最近は黒糖焼酎を好んで呑んでます)、カラオケ、踊り、大勢で賑やかに騒ぐこと人間ウオッチング、読書(特に歴史もので戦国、幕末、坂本龍馬好き)、
映画鑑賞(特に好きな映画 邦画:男はつらいよ 洋画:ブレイブハート)、TV鑑賞(太陽にほえろ!超大好き)、洒落・駄洒落を言う、俳句・川柳、人、雑学、講演、仕事


と いったところで基本的にエンターテェイメント・娯楽好き性分な人間です。
で、もろもろの趣味の詳細については今後続くブログにても徒然に書き綴っていきたいと思いますが、今日は私の座右の銘を紹介します。


「万物が時を得る喜び」


この言葉は坂本龍馬が手紙に綴った言葉ですが、あまり知られていない龍馬の言葉で、龍馬は「万物が生まれてきて、生きていて、この世に存在することを本当によかった!、いいなぁ〜 と思え喜びを実感できる世の中を創りたい」と言ったわけですが、


厳しいヒエラルキーや差別があった幕末の世の中で、すごく素晴らしく素敵な発想だと思いませんか?
幕末期においては、ごくごく少数の人間のみしか持てなかった尊い発想・思想だと思います。
自由と博愛の精神を持っていた(僕は龍馬をそうとらえています)龍馬ならではの思想ですね。


これを私、少々省略して、、、


「万物時喜(ばんぶつじき)」


という言葉を私 座右の銘としています。


講演の仕事を通じて、私 鈴木勝彦が生きていくことを通じて少しでも万物時喜な世の中に世の中を近づけられるよう精進していきたいと思っています。


これが私の人生かと。。。


2007年7月 4日

合成の誤謬を打破する


−合成の誤謬−
あまり聞き慣れない言葉だと思うのですが、意味は
「ミクロの視点で正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では、かならずしも同じ理屈が通用しないことを指す経済学の用語」(※ウィキペディアより引用)


と、いうもので、わかりやすい例えでいうと少子化、リストラなんかはその類いです。


少子化でいうと個々人単位の既婚者男女においては子供がいないということは、経済的なメリットが発生しますが、国レベルでみると国力が減退するといった現象が発生します。
リストラも企業単位でみれば利益確保という側面においてメリットが発生しますが、リストラで失業者が増大すればその国の経済力は減退するといった現象が発生します。


この言葉を知ったのは、インターネットが日本に台頭し始めた8年くらい前でしょうか。。。
確か新聞で知った言葉です。
”なるほど” と思ったとともに私はこんな事を思いました。
(私の好きなイメージングです。やもすると妄想かもしれませんが。。。)


”現代人全体の教養・知能レベル(内容の良し悪しが錯綜しますが)が50年前以前よりも格段に上がっているんだなー 
それに拍車をかけるのは、インターネットなんだろうなー
なぜならば、教養も知能(知力)もすべては情報が形成するからなー
基本的に人間は、知力が高まれば自身を中心にメリット(やもすると身勝手な)があることを優先に行動する生き物だから、この合成の誤謬という現象は必然だなー 
ただ、軸がないまた物事の本質がわからない人間が情報のシャワーに打たれ続けられると処理能力が伴わないから下手をすると多くのそして根深い歪みが発生する可能性が世の中どんどんでてくるなー
そういった意味においては、インターネットは劇薬的要素(良薬にも毒薬にもなりえる)をはらんだ産物だなー” と。


あれから8年、 今 思うのは  ”人間捨てたもんじゃない”  という気持ちです。
なぜなら環境問題したり少子化問題したり世界レベル、国レベルで物事を考えハンドリングしていく人間が、ここ一番ちゃんと生まれ出てくるということを感じるからです。
ただ、問題になるのはここ一番のイノベーターが よりよい社会作りを志向し行動するマジョリティーを形成できるか?ということです。
これは、一種経営感覚とか経営バランス的な資質がものをいうような気がします。
情と理(利)の仕組み作りですね。


そして、今よりも更に全体の教養・知能レベルを高め(=知徳 という言葉が適切でしょうか)マクロレベルで物事を考え行動できる人間をより多く育成・輩出(=質の高い教育を)していくことがこれからものすごく大事な取り組みになってくると考えます。


さて言う私は、、、と いうと


ペルソンという会社・組織・仲間を通じて、講演(講演依頼.com)という仕事を媒介に自身の軸である万物時喜を持って、社会における合成の誤謬を打破していきたいと真剣に思い、生きています。


2007年10月19日

なんのために!


かなり久しぶりのブログで恐縮です。
今年は、上半期終了月の9月半ばから下半期開始の10月は、かなり多忙でして。。。


さて、弊社は4月からが期の変わり目になりまして、通期事業計画を3ヶ月区切りで設定し、それに沿って個人も3ヶ月タームで目標や行動計画を設定し、3ヶ月タームで成果面談をおこなうという人事評価を設けています。


10月は、7月〜9月の成果面談と10月〜12月の目標・行動計画面談が個別に40回くらいありました。
一人(1回)あたり、30分〜60分の面談ですが評価するところは公平に評価し、課題や問題は遠慮なく言い、期待することもしっかり伝えます。


そんな中、あるメンバーに「あなたは、何をよりどころに何のために仕事をしているの?」と問いました。


彼は、、、


「いい国、日本を作りたいがためです」と答えました。


わたし的には、ものすごく嬉しかったです。
心が熱くなりました、がぁ、同時に身が引き締まる思いがしました。


何故か?


それは彼が、それを仕事を通じて少しづつでも実感できるよう僕は支えになりサポートしなければならないという責任を改めて感じたからです。


私が、39年間養ってきた全知識と知恵を1日でも早くメンバーに習得してもらう。
直近の私のミッションです。


2007年12月26日

2007年を振り返ってみて、、、

月日がたつのは、早いものですね。今年も残すところあと6日です。
2007年を振り返ってみて、嬉しかったことがいくつかあります。
今日は、いくつかある嬉しかった事の中から2つ紹介します。


1つ目は、ペルソンメンバー個々及び組織としての能力が飛躍的に向上していることです。
数年前からペルソンは、マーケット制をひき現在、研修チーム、教育・学校チーム、販売促進チーム、環境・健康チームと4つのチームが存在し、各チームに営業(1〜2名)及び編集(1名)を配置し、各マーケットにおけるサービスの向上に取り組んできました。
専門性を高め、よりよいサービスの提供を念頭に様々な企画や商品開発・リリースに着手でき、お客様から支持を頂き、かつよい評価を頂けた年だったと思っています。
何よりも嬉しいのは、各メンバーが自発的に行動し、企画や商品開発に取り組み成果を上げてきているというところです。


「自らが機会を創り、機会によって自らを変える」


人生、仕事って、かくあるべきだと思います。
やりたい事がやれる(できる)事で、かつやるべき事という仕事のあり方が最も人生を謳歌させるものだと思います。
ペルソンのみんな! 2007年はお疲れ様でした。
2008年は、ペルソン発信で各マーケットへムーブメントを創りましょう!


2つ目は、いい出会いが複数あったことです。人生は出会いによって成り立っているといっても過言ではないと思っている私には、人との出会い、人とのコミュニケーションがモチベーションUPの源泉です。
新たな出会い、懐かしい出会い(再会)がありましたが、出会いとは不思議なエネルギーをもたらせます。
意識して出会える出会いもあれば、無意識の中で出会える出会いもあります。
65億人の人間が存在する地球で、出会えるって奇跡だと思います。素敵です。
中でも、今年はペルソンに入社した関君、本間君、佐藤さん、田中さんの出会いがありました。
お互いが成長していける関係を創りたいと思います。
また、お客さんや講師の方々との出会いも多くありました。
ビジネスを拡張させてくれる出会い、これからが楽しみな出会い、やる気にさせ成長させてくれる出会い。
本当に感謝です。
ありがとうございます。


2008年もよろしくお願い致します。


2008年1月 8日

12年の歳月と2008年我がテーマ


明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。


今年は、干支の最初の子年ですね。
12年前の1996年を振り返ると、ちょうどパソコンが普及し始めた年で年賀状には皆が示し合わせたように「今年もよろしくお願いしマウス〜」と、マウスがネズミの絵だったりしてたのを思い出します。(笑)
今回はの子年は、そのような年賀状は存在しないでしょうね。


それだけ、パソコンという存在がビジネスに生活に定着した証でしょう。
10年一昔と、言いますから12年の歳月はライフスタイルを結構変化させるものだと思います。


ビジネスのあり方もこの12年で大きく変化したと思います。
2008年 年初、あまり景気のいい話を聞かない事の方が多いような気がしますが、子の字は「ふえる」という意味があるようで、種子の中に新しい生命が芽生える様子を表しているそうですから2008年は、


”新たな事に積極的に挑戦し、新たなる自分を創造する”


をテーマに仕事を人生を謳歌していきたいと思います。


2008年2月13日

Historyは、Story...

ここ1ヶ月、はまっている本があります。
井沢元彦さんの「逆説の日本史」です。
古代日本史、中世、戦国、近世と現在14冊出版されています。
今のペースだと幕末、明治、大正、昭和と20冊にはなるんじゃないでしょうか。


初めて1冊目を手にしたのは、6年程前かと思います。
当時すでに数冊出版されていたので、短期間でまとめて読みました。
その後は、出版されるごとに楽しみに読んでいたのですが11冊目からご無沙汰していました。


それが、ここ最近11冊、12冊、13冊、14冊を古本屋で見つけて、まとめ買えをし通勤時間、就寝前、土曜・日曜で、読みふけっています。
元来の歴史好きもあるのでしょうが、井沢さんの分析力、推察力、理論構築は仕事上でも大変勉強になります。
また、日本史を通史として書かれているので歴史上の出来事(結果)とその原因及び日本人の特性がよーく把握できます。


24歳のリクルート在籍時に仕事、プライベートで大変お世話になった取引先の社長に薦められ渡部昇一さんの「日本史からみた日本人」というこれも数冊で構成される大著をとても興味深く読んだのですが、「日本史からみた日本人」も通史としてしたためられていて、歴史上の出来事(結果)とその原因が把握でき日本人がもつ特性は、どのようにして形成されていたったのかということを学びました。
渡部昇一さんは、最も日本人に影響を与えた歴史上の人物を2名選出していました。
1人は、聖徳太子。もう1人は、織田信長です。
対極する両者ですが、、「日本史からみた日本人」と「逆説の日本史」を読むと なるほど!と思います。


歴史を学ぶということは、その存在の本質を把握するに格好のアプローチだと考えます。
仕事をしていてここ数年、コミュニケーションを課題にする企業・団体が増加していますが日本とは?日本人とは?というテーマで歴史を学ぶ事が、理解し合えるキャパを増やさせられる気がしている今日この頃です。
HistoryをStoryとして、学ぶと人間がひとまわりもふたまわりもいや何倍にも大きくなり、人生が豊かになります。
これは、間違えないでしょう!


2008年2月28日

”ご機嫌な職場”

13期も残り1ヶ月少々。4月から新しい期、14期を迎えます。
12期下半期の昨年1月〜2月にかけて3ヵ年戦略&事業計画を策定し、早1年。
3ヵ年の2年目になるのですが、3ヵ年の目標を達成させるとても大事な期だと思いながらここ数十日間14期の戦略&事業計画を作成しています。


11期〜13期にかけては、研修、教育・学校、販促・金融、環境、健康等のマーケット担当チームを確立し、それぞれのマーケットチームがミッションを持ちアクティブな仕事ができる状況・環境を作ってきました。
14期は、更にマーケットの専門性を高め講演主催者様・運営者様及び講師の先生方にとって、より価値ある存在になり、より多くの方々に支持される会社になり、社員一人一人がイキイキとハツラツと仕事に取り組めて、更に全メンバーが一体感を持って個人間、チーム間、グループ間、部門間、全社、お客様、そして社会に好影響をおよぼせるようになりたい!という絵図らをイメージしながら昨年1月〜2月に策定した3ヵ年戦略の人事(人材、組織、評価、)戦略、マーケティング戦略、営業戦略に更なるパワーとエネルギーを注入すべく案を煮詰めています。


が、煮詰めている途中でどーしても気になることがありました。
それは、、、


「マーケット毎の専門性をより高める、また評価としてマーケットチームやグループ軸を設けるということで、セクショナリズムが生まれるとは言わないまでも全社員の一体感や仲間意識が希薄していくのではないか。。。?20名の社員数なのにもかかわらず。。。??」


と、いうもので、こちらを立てればこちらが立たず的な感覚にさいなまれていました。


そんな折り、講演依頼.comエントリー講師の河合太介さんから2月初旬に頂いた著書 「不機嫌な職場」が妙に気になり、一昨日4時間で熟読しました。(2月は初旬から井沢元彦さんの「逆説の日本史 12、13、14」に没頭で、会社のデスク上に置きっぱなしにしてました。。。すいません、河合さん。)
ちなみに河合さんは、ケビン・D・ワンというペンネームで故・本田宗一郎さんをモデルにしたビジネス寓話「ニワトリを殺すな」という10万部超の著書を出版した方なのですが、この「不機嫌な職場」今の僕に心に染みるように入り込んできました。
不機嫌な状態・状況を作ってしまう人間、心理、行動、組織、会社、社会の原理原則がわかり、かつ「不機嫌な職場」にしないために会社は、組織は、人は、何をすべきかを具体的な事例を織り交ぜ構成されていまして、大変興味深く読ませて頂きました。
とても、参考になったのと日本式的マネジメントにはいい部分(もちろんそうでない部分もあると思っていますが。。。)が多分にあると改めて実感しました。


専門性を高めつつ、全社員がより一体感を持ち仲間意識が持てる ”ご機嫌な職場” を創り継続させていく構想が持てて来ました。
ただ、「築城3年落城1日」と言うように ”ご機嫌な職場”を創り継続させていくということは非常にデリケートで難しいことだと思います。
何かを1つ取り組めばいいというものではなく、情と理(時に利)のバランスを絶妙に複数の取り組みを時に果敢に、時に繊細にそして緻密に平行してやっていかなくてはならないので、かなりな挑戦です。


が、仲間を会社を自分を信じて日々実行あるのみです。


河合さん、ありがとうございました。


河合太介さん 講演依頼情報


2008年4月 9日

14期始動

遅ればせながらですが、先週4月1日から14期が始動しました。
新メンバー2名も加わり、20名新体制での始動です。


ペルソンでは、毎期事業計画の目標達成へ向けて期毎にスローガンを設けています。
今期は、〜自ら語りかけよう 自ら起こそう!〜 をスローガンとしています。
主体性、自主性、自立性に重きをおいているペルソンらしいスローガンだと思っています。
メンバー全員に「成果を得るために自ら考え行動していく力」を今以上に向上していってもらいたいと思っています。
みんな! 今期も頑張りましょう!


2008年4月22日

夢からの妙な発展

面白い発見をしました。


「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」 織田信長


「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」 豊臣秀吉


「嬉しやと二度さめて一眠り うき世の夢は暁の空」 徳川家康


「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す」 明智光秀


戦国時代を代表する織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀の辞世の句それぞれに夢という言葉が存在します。
偶然か?はたまた必然か?
ただ、いづれの夢もビジョンだったり希望といったポジティブなものではなく、就寝している時の夢、いわゆる幻想という存在として表現されていると思います。
しかも人生(世の中)は、夢だと。。。
夢という言葉には、「はかないこと」という意味もあります。
何か人生に虚しさを感じます。。。(時として確かに人生が夢幻に思える時がありますからね)
特に信長、秀吉、光秀の辞世には無念さを感じます。(家康の辞世は、別物ですが)


さて、気を改めここで素朴な疑問を抱きました。


当時の人達は、夢という言葉の意味に希望という概念はなかったのか?
なかったのであれば、いつからどうして夢という言葉に希望という概念が持たれ始めたのか?
言葉の意味が変化する(しかも社会通念として)ということは、ままある現象のようですが不思議です。
どういうメカニズムで、そういった現象が発生するのでしょうか?
そんな研究をされている学者がいたら是非話を聞いてみたいです。
やらしい話ですが、何かビジネスに活かせそうなニオイがします。
そんなことを考えていると、虚しいとかはかないとかの悲哀に浸ってなんかいられません!!
人生前向きに生きなければと、ブログを綴ってて思う今この頃です。


最後に面白い句を。


鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす
鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす
鳴かぬなら 己が鳴こう ほととぎす


2008年5月29日

仕事と恋愛で育てられている

先日、とあるテレビ番組を観ていたらある女優さんが「仕事と恋愛で育てられている」ということを言っていました。
私は、妙に共感しました。
私自身もそういうタイプで、実際そういう経験を経て今があるからでしょう。


いい大人が「育てられている」と、いうことが言えるのはそれだけ仕事と恋愛は、人生を生きていく上で奥深く、学ぶべきものが多いという解釈を私はしています。


そして、こんなことを1人で考えていました。


俺は「人生=仕事と恋愛」と、いう構図な概念の人間で、かつこの類いの人間は仕事と恋愛が好きなんだろうなぁ
そして、好きだからこそ一生懸命になれるし、一生懸命だからこそ気がついたり発見できる事の総量と奥行き(深さ)が多々あり、結果学んでいるという状態を実感し、「育てられている」と、いう意識になるんだろうなぁ
じゃ、何で好きなのか?仕事も恋愛も嬉しいこともあれば、苦しいこともあるのに。。。
むしろ苦しいことの方が多いような人生を歩んできたような気がするのに。。。
ん。。。あんなことも、こんなこともあったなぁ 今、そしてこれからこうしたいなぁ
意外といいことが多いなぁ 


                        心  "ワクワク"


あれっ? ワクワクしてきたなぁ
もしかしたらこのワクワク感が好きなのかぁ?
このワクワクする感情っていいなぁ
ワクワクすることがあるって幸せだぁなぁ
でも、仕事と恋愛 究極の選択を迫られたらどっちを選ぶか?
迷う。。。


三千世界のカラスを殺し、ぬしと朝寝をしてみたい


かっぁー、突き抜けた男、高杉晋作はかっこいいなぁー
俺も愛かな。。。


と、日は変わり昨晩花屋の前を通りふと立ち止まり一句


皐月夜に 紅の薔薇 美しく 愛しき人へ 想いかさねる


んー。。。まだまだ、俺は修行が足りないな。
頑張ろう!


2008年6月12日

6月12日

今日6月12日は、「日記の日」 だということを恥ずかしながら今日知りました。
「アンネの日記」の著者アンネ・フランクの誕生日(1929年6月12日)及び日記を書き始めた時期(1942年6月14日)に由来しているようです。


ちなみにアンネの日記は、2年後の1944年8月1日にアンネがナチに隠れ家から連れ出され、ポーランドのアウシュビッツに送られたため8月1日を最後に日記が続く事はありませんでした。 そして、翌年1945年3月31日に強制収容所で15年9ヶ月という短い人生に幕を閉じました。


それから60年、インターネット・Webという媒体でブログという名の日記を幾万人の人が思い思いに綴っています。
平和です。なんて平和なのか!


"世の中が、少しでもよりよくなるように" という思いで、これからもブログという名の日記を続けて行きます。


2008年7月31日

人生を変えた瞬間 私のターニングポイント

「人生を変えた瞬間 私のターニングポイント」
昨年の10月から 講師の心.com
にて、始まったコーナーで今までに北澤豪さん、荻原次晴さん、角田信朗さん、室井佑月さん、直近で古賀稔彦さんと2ヶ月に1回のペースで各界の方々にご登場いただいています。


私はこのコーナーを読むといつも自分のターニングポイントを思い出します。
それは、このブログにも綴りましたが30歳の時の病気(事故)です。
あれから10年。
あの時は絶望の淵にいて今の自分などまったく想像もできませんでしたが、「人間万事塞翁が馬」が人生か。。。
あの時の経験が自分の人生にとってプラスとなる意味ある転機だったんだと実感できた時、"自分は世の中に活かされている"と心底思いました。
そう思ってこの9年程を生きてきて、あと1ヶ月と9日で40歳を迎えます。
ブログ 「人生とは。。。三十路中盤へ編 No.16 」で綴った

=====================================
"本当に自分もいつ死ぬかわからない、万物は人生は生命は有限だ。
2年前に生き死ににかかわる入院をし、運良く生きれた自分もいつかは死ぬ。。。" 


(中略)


自分の人生を振り返って誕生から考えると10年良くて10年良くない、次に5年良くて5年良くない、次に2.5年良くて2.5年良くない、次に1.75年良くて1.75年良くない、、、
と、いうような人生サイクルのように思えてきたのです。
そして、当時33歳の私がこのサイクルを続けていくと限りなく0に近づく歳が42歳だったのです。


42歳、そう男の厄年、本厄です。
その瞬間、妙に納得して思いました。


"自分が死ぬ歳は42歳にしよう。とすると、自分の人生はあと9年。のほほ〜ん とは生きてられない!
やりたい事を精一杯やろう!後悔したり、思い残す事の無い人生をおくろう!"
=====================================


まであと2年強。
そしてこれからの2年強、ドラマティックに生きたいです。


2008年12月17日

「変」


今年も残すところあと2週間弱となりました。
日を追うごとにだんだんと、せわしくなってきますねぇ 

さて、2008年今年の世相を表す漢字は「変」でしたね。
皆さんは、この漢字「変」をStrangenessと解釈しましたか?
それともChangeと解釈しましたか?


私は、Changeなのですが世論がどうか知りたいところです。
マジョリティーがどちらかによって来年に大きな違いが発生すると思いませんか?


2009年は、まさしく変化の年だと感じています。
(改めてオバマの演説は、凄いですね。Change! Yes We can! これはタイミングも含め名言ですね。ちなみにオバマの演説の声は、1/f ゆらぎ だったか 声音が複数の音程をもつだったか いづれにしても感性に響く声音らしいです)
日本人は、よく変化に弱いとかいう話を聞きますが歴史をみると相当に変化対応能力がある民族だと思います。
ただ、全体でみると残念に思うのが本当に本当に崖ッ淵にならないと変化ができないというところがあると思います。
いや、もしかしたら臨界点を越えた段階から加速度的に変化できる民族なのでしょうか?
以前、ある本で読んだのですが沈没寸前の船にイギリス人、アメリカ人、ドイツ人、日本人など各国の人が乗船していたのですが、船長は人々を一刻も早く船から海へ飛び込ませないといけないと判断し、すんなり飛び込んでもらうために各国の人ヘ一人一人にこう言いました。

イギリス人には「飛び込めば紳士になれますよ」 ジャボーン
アメリカ人には「飛び込めばヒーローになれますよ」 ジャボーン
ドイツ人には「飛び込むことが規則になっています」 ジャボーン
そして、日本人には「みんな飛び込んでいますよ」 ジャボーン


なんとも不愉快な揶揄ですね、しかし! けしからんですね!
でも、ある国の人にこの話をしたらケラケラ馬鹿笑いされました。なんと屈辱的な。。。


ただ、言える事は今日までの日本の発展は変化してきたからこそだということです。
私は、思います。先人のイノベーター達が大和魂という揺ぎ無い信念を持っていたからこそだと。
信念があり、柔軟性に富んでいたからこそ変化するという事に抵抗がなかったのだと。


ただ、過去と今は大きく違うところがあると思います。
それは過去は外的要因がもとで、変化せざるえない状況で、そういった意味では和洋折衷的に既存するものと新しいものをうまぁーく馴染ませた的な感じで、今は(外的要因は同じなのですが)自らが率先してイノベーションしないといけない時代だと。


「イノベーション」来年の私のキーワードです。


最後に8年前に出会いその後の私に多くのものをもたらしてくれたバイブルを紹介します。


「私は意味を持って生きている。
そして、意味を持って生かされている。
私という存在は他にはいない。
私は成長し、少しずつ変わっていくがそれでも私は私であることに変りはない。
だが、意味をなしえる上で、生を全うするには、自分自身の信念を持ち自分自身を十分に表現できることが必要である。
そのためには、私は与えることの何かを十分に持たなければならない。
これは、相手あってのことであり自分のことを必要としてくれる相手であればある程、多くのそして深いものを与えることができる。
そうした関係を築くにはまず・・・
自分が何者であるかを認識しなければならない。
こうして、私は私が与えた分の見返りを得ることができるのである。」



2008年12月29日

2008年 仕事納め! Vol 2. ペルソン諸君! 最高!!

2008kensyuu.jpg

15:00から18:30のワークミーティング 素晴らしかった!!


19:00から21:00の宴も   んnnn! 何も言えねぇ(^。^)


2009年も この勢いで 行こうぉ!!!


2009年1月 6日

驚愕! かつ衝撃的! 「桃太郎」

明けましておめでとうございます。


昨日5日からほとんどの方が、仕事始めだったかと思いますが年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか?
私は、自宅近くの温泉が湧く銭湯へ毎朝・毎夕通いつめ、あとは読書、ビデオ、テレビ鑑賞三昧の年末年始でした。


さて、今年は何処もかしこも (かくゆう私も)「厳しい年になる」と言っていますが少しでも明るく元気になれる要素はないものかと、今年の干支 丑 というものを調べてみました。


丑の刻は午前2時を中心とする約2時間。「丑三」(うしみつ)は、丑の刻を4分し、その第3に相当する時、すなわち、午前2時頃から午前2時30分頃までであり、俗に、草木も眠るとか、家の軒が3寸下るとかいい、魔物が跳梁するのにふさわしい時であると考えられた。
「漢書」律暦志によると「丑」は「紐」(「ひも」「からむ」の意味)で、芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされる。                  (Wikipedia より抜粋)


また、魔物がらみですが鬼が出る方角である鬼門も丑と寅の間である艮=(うしとら)がその方位とのこと。
※が、ゆえに鬼は牛の角を持ち、虎の牙を持ち虎柄のパンツを身にまとうというキャラが確立されたらしいです。人間の想像力とは実に面白い。


ん、、、なんか 明るく元気になれる要素でないですね。。。


では、少々先を見通して来年の寅はどうかと調べてみると。。。
(新年早々、来年の事を言うと鬼が笑うといいますが...ん! 結構 今年は 鬼 がキーだったりして)


「漢書」律暦志によると「寅」は(いん:「動く」の意味)で、春が来て草木が生ずる状態を表しているとされる。                                         (Wikipedia より抜粋)


うん、ちょっと前向きに進んでいる気がしますね。
希望の兆しを感じます。


ちなみに鬼がキーのような気がした私は、鬼も調べてみようとネットサーフィンをしていると面白いものに出くわしました。


芥川龍之介 著書の 「桃太郎」
な、な、な なんと 芥川が「桃太郎」を書いていたとは!!
内容を読むと、さらに な、な、な、なんと 童話・昔話「桃太郎」のパロディーです!
私的に題すると「大人版 ブラック&ダーク桃太郎」と言ったところです。


芥川龍之介 「桃太郎」


ただ全てを読み感慨にふけると、これは驚愕かつ衝撃的作品でした!


読んでいる途中は、あまりのブラック&ダークさにケラケラ笑っていたのですが、時間が経つに連れ芥川ぽさを感じ、人間のおぞましさ、醜さを風刺している作品だと思いました。
(んー 実にふかぁいーーー)


そして違う思いが芽生えました。
それは "人間、謙虚にまじめに誠実に勤勉であるべきだと"


と、いう事で、、、
今年は、昨年末にブログで書いたイノベーションを意識しながら様々な問題・課題という からみあう(からむ) ひも を一つ一つ誠実にひも解きながら来年にくるべく春を期待して勤めて(動いて)行こうと思ったしだいです。


おあとがよろしいようで...


今年もよろしくお願い致します。



2009年1月23日

人生の中で誰にでも師という人が、1人か2人(人によってはもっと)存在するかと思いますが
38歳で仕事を通じて心底そう思える人と出会え、2年経った今も定期的にお会いさせていただき様々な事を教えてくださる師が存在する状況にある私は幸せな人間だと思っています。


昨年末、先生 行きつけのステーキハウスで食事をご馳走になっていた時に


「先生、お願いがあります。ペルソン一同に先生の貴重な話を講義してやって下さい。」


と、先生がお忙しいのを承知でお願いしてみたら 笑顔即答で


「いいよ いつやる? でも堅ッ苦しいのは何だからこの店で食事でもしながらやろうよ」


と、おっしゃって頂いた時は涙がでました。


そして、1月21日
私がお願いしたのにも関わらずメンバー一同をゲストとして迎えてくださり、面白くためになる話をしていただき、美味しいお酒と食事をいただき、笑顔が絶ることがない時が流れ、その場を"温かぁーい雰囲気だなぁ"と、感じていた私は本当に嬉しく思い、幸せを実感していました。


"先生と出会えてよかったぁ、この仕事をやっててよかったぁ、このメンバーと出会え一緒に仕事ができてよかったぁ"


そんな思いにさせてくれた 童門先生 本当にいつもありがとうございます。


これからもよろしくお願い致します。



2009年3月 4日

3という数字

もう、3月ですね。
昨日は、3月3日のひな祭りで雪降るホワイトデェーでなかなか洒落てる夜でした。


さて、多くの企業が期末の3月。みなさんも忙しい日々を送っていると思います。
弊社もフル回転で、頑張ってます。


が、この3という数字なかなか意味深な数字です。


石の上にも三年
三度目の正直
三人よれば文殊の知恵
早起きは三文の徳
三顧の礼
仏の顔も三度まで
桃栗三年、柿八年


と、結構3を用いたことわざ教訓は多いです。
それだけ意味ある数字と、いうことでしょうか?


ちなみに私の大好きな寅さんこと、車寅次郎は啖呵売りの中で3という数字を


「とかく三という数字はあやが悪い。京都は極楽寺坂の門前でかの有名な小野小町が、三日三晩飲まず食わずに野たれ死んだのが三十三。三三六歩(さんさんろっぽ)で引け目が無いという。」


と、あまり評価していないですが。。。


が、しかし私は、3という数字が結構好きでブレイクスルーする端境期的な時・物のような気がしています。


ちなみに弊社登録講師のスピリチュアルカウンセラー:リーナ・ダナエさんは、数秘学(数秘学については以下※印参照)という学問の中で、3という数字をこう言っています。

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3は方向性を生み出し「発展」を現します。3は2つの分離した働きに対して、3番目の働きを現わすもので、方向性を生み出します。また、3は相対(対立)するものから新らたな展開や新しいパワーを生じさせた状態を意味し、力強いパワー(破壊力)を生み出すことで、物事をさらに発展させるという創造的な力を象徴する数といわれています。
★3はあらゆるものを発展させていく資質を持つため、創造的な力や破壊的な力と結びついてきました。その上、二つの対立を越えていくパワーや創造性、※直線的な世界から三角形など幾何学図形への広がり、一本の直線上に位置しない任意の3つの点を通過して描かれる円とも深く関係しています。※ The Modern Numerology by John King
★3は三つの世界、三位一体の象徴ともいわれ、宗教や神話の中では、とても多く用いられています。キリスト教の父と子と聖霊、神道の三種の神器、ヒンズー教の三神、ギリシャ神話の三女神、バビロニアの創造神話も三位一体から始まります。また、"創造・維持・破壊""開始・中間・終了""過去・現在・未来""昨日・今日・明日"など、様々な3つで結ぶ要素が存在しています。
★カバラでは、3は「知性」を意味し、神聖なるものを理性的に見極める鋭い知性、霊的な世界の完全性としてとらえられています。

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いい感じです!
なんだかぁ、いけそーな気がするぅー って気がします。(笑)
でも意外とこの 気 って大事じゃないですか?


そうです、気を高め機運を高めていきましょう!
世の中、考え方しだいです!


ちなみに他の数字(1、2、4から10)にも数秘学としての意味があり、個人の生年月日からその人の人生、人柄、はたまた今後も説明できるようです。
占いチックですが、私はリーナさんに自身の生年月日(1968年9月9日)からリーナさんのいうロジックで、人生、人柄、今後を説明されすごい納得しました。


数字の意味に興味のある方は、リーナさんのWebサイトを是非ご覧ください。
(生年月日からその人の人生、人柄、今後のことは書いてないですが)


※数秘学
『数秘学』とは、古代バビロニアで発展した「数の神秘」を研究する学問であり、後にギリシャの哲学者・数学者であったピュタゴラスが、現在のようなシステムに体系立てたといわれています。彼は"この世のものはすべて数字で表わすことができる。その数字の真の意味を理解すれば、その背後にある隠された真実を知ることができる"と説きました。そして、"宇宙の万物はすべて振動している"を『数秘学』の基礎理論とし、その振動を数字に変換させることで、それぞれの性質や深い意味を探究してきました。彼の「数」の哲学を、さらに深いものにしたのは、古代の東方に伝わる秘儀カバラであり、エジプトの神官から直接伝授されたといわれています。『数秘学』の研究は、幾多の時代と共に、神学・錬金術・占星術・タロットなど神秘主義と結びつきながら、「数」の意味は常に拡大されていきました。


数字は一つひとつの異なった振動や存在する意味を持ち、素晴らしい力と未知なる可能性を内に宿しています。また、数字は秘儀的な要素を含んでいるため、知らず知らずの内に、私達の人生に大きな影響を与えているものなのです。

"数字は神を語り、世界を語る哲学の一種であり、智恵の宝庫といえます"


リーナ・ダナエさん Webサイト
http://www.starpeople.com/home.html


数秘学について
http://www.starpeople.com/sun2d.html


リーナ・ダナエ 講演依頼情報


2009年5月27日

ビジネスの本質・意義

先週、「営業」という仕事 というタイトルでブログを書きました。
その際に<営業パーソンのミッションは顧客の目的に貢献することだ>というコメントを記載しました。


<営業パーソンのミッションは顧客の目的に貢献することだ>
その通りです。
ただ、ビジネスというくくりでとらえた場合もう少し立体的に考える必要があると思っています。


今回は、更に掘り下げて私なりの「ビジネスの本質・意義」についてお話したいと思います。


<営業パーソンのミッションは顧客の目的に貢献することだ>
これは、私が言うには買い手と売り手の2次元での発想レベルだと考えます。

顧客の目的に貢献する
=営業パーソンは、目的到達における貢献度に応じた経済的報酬を得る


目的到達における貢献度が高ければ高いほど基本的には高い経済的報酬を得る。
だから顧客の目的に貢献する。(※「貢献し続ける」と言ってもいいかと思います。なぜなら高い経済的報酬は、モノ・サービスによっては一度きりでなくリピートとしての蓄積もあるからです。)
の構図です。


ここで考えることがあります。


顧客の目的に貢献していくことの先に何があるか?


買い手だけがよい、買い手と売り手だけがよい、ではビジネスは永続的にまわらないということは想像いただけることかと思います。


なぜか?


人は、社会(世の中、世間)で生きているからですね。


ということは、その顧客の目的に貢献していくことの先に少しでも(多ければ多いほどよい)社会をよい状態にしていくという要素が含まれているかが大事になります。


             社会(世間)

                      買い手

         売り手


ビジネスとは「売り手よし 買い手よし 世間よし」でなければならないとともに「売り手よし 買い手よし 世間よし」こそがビジネスの本質・意義であると思えませんか?


私は、心底そう思っています。


とは、いうものの いかにももっともらしく書いていますが、実は私のこの観念は私が師と仰いでいる童門冬二先生から教えていただいた近江商人の経営理念(真骨頂かつ真髄である)


"三方よし"(売り手よし 買い手よし 世間よし)


からきています。
この言葉とこの言葉へ至る近江商人の精神と歴史物語を童門先生から教えていただいた時に私は"これだ!"と心の中で膝を叩きました。


そして、今 猛烈にしたいことがあります。


それは、 <"三方よし"でビジネスができる人を一人でも多く育成したい>


です。


これは、ぺルソンの研修事業部のミッションステートメントでもあります。


"三方よし"でビジネスができる人がより多く存在したらよりよい世の中になると思いませんか?
絶対になります。
私は信じています。
だからやります、やり続けます。


これが私の講演・研修というビジネスを通じての本質・意義であり使命だと心底思っていますから


最後に童門先生の著書「人生で大切なことはすべて映画で学んだ」から是非ともみなさんに知っていただきたいセンテンスを紹介して今日のブログはおひらきとしたいと思います。


ぼくに生きる目的をはっきりと示してくれた映画
『生きる』  一九五二年・日本映画
        監督/黒澤明


戦争に負けて、憲法も変わり民主主義が導入された日本では、役人と国民の関係も逆転した。つまり政治や行政の主人は国民であって、役人ではなくなった。役人に対しては"パブリック・サーバント(公僕)"の精神が必要になった。戦前から引き続き役人を務めている連中にとっては、ここで大きな意識改革が求められた。主人である国民の声を行政に生かすために地方自治体に新しく「市民課」というのが設けられた。市民の声を行政に生かすためのパイプ役として設定されたものだ。したがってここでは市民からの声(意見・苦情・不満など)を交通整理する。やらなければいけない仕事は、やるべきセクションに紹介する。この映画は、そういう新しい役所のセクションで働く人々の実態を描いたものだ。

主人公の市民課の課長・渡邊勘治を演じたのは志村喬である。部下役には藤原釜足を先頭に、左卜全・山田巳之介・田中春男・千秋実・日守新一などがいる。
それに映画初出演だった小田切みき がお茶くみのアルバイト(臨時職員)・小田切とよ役を演じた。
映画はすでにDVDになって、観た人も多いと思うので筋の詳しいことは書かない。要するに、パブリック・サーバントの先手を務めなければならない市民課の職員が、実はそうでなくて、主人である市民をたらいまわしにして責任逃れをするという話だ。
しかしその役人の責任者である志村喬が演ずる課長が、突然胃がんであることを知って、はじめていままでの役人生活を見直す。つまり、
「自分は一体、市民のためにひとつでも何かしたことがあるだろうか」
という疑問を持つ。
これがきっかけになって、彼は医者からあと三か月か半年しかもたないと宣言される。生命の残りをフルに活用して、市民から要望のあった湿地帯に小さな公園をつくりあげる。この過程では、彼自身がたらいまわしにあう。つまり、悪しき官僚主義に振り回される。が、そんな彼を心から支援し抜いたのが実は市民の群だった。そして志村課長にそういう気持ちを起こさせたのは、実を言えば正規の職員でなく、アルバイトの小田切みき(役名は小田切とよ)だった。小田切みきは、民主化された市役所のシンボルである。この課に勤め始めたときは大いに期待を持った。
「課の職員たちは必ず市民のために生きてくれるに違いない」
と思ったからだ。ところが、みんなたらいまわしに夢中になって本当に市民のことを考える役人は一人もいない。小田切みきは心の中で、
(この課の人はみんな死んでいる、生きていない)
と感ずる。そこで彼女は突然役所をやめて、町工場に就職する。町工場で小さな人形を作る。そしてある日、医者からがんを宣告されて落ち込んでいる志村課長に出会う。このとき、彼女は自分が作ったウサギの人形を見せてこう言う。


「このお人形さんをひとつ作るたびに、わたしは、どこかの赤ちゃんと仲良くなった気がするの」


ぼくがこの映画から決定的な衝撃を受けたのは、この一言である。


中 省略


小田切みきの考え方だ。小田切みきは前にも書いたように、
「せっかく作られた市民課なのだから、住民のために仕事をしてくれればわたしは喜んでお茶をいれたい。ところがこの課の人たちはみんな市民をたらいまわしにするだけで、責任逃れをしている。そんな人たちにお茶をいれるのはいやだ」
と考えて飛び出してしまう。そして町工場に入って人形を作り、ある日出会った志村喬課長に、


「このお人形さんをひとつ作るたびに、わたしは日本の赤ちゃんとまた仲良くなったと思うのよ」


と告げる。ぼくは思わず、
(これだ!)
と心の中で膝を叩いた。それは、
「ぼくたちも、このアルバイトが人形を作る喜びと同じものを仕事の中に見出さなければいけないのだ」
と悟ったのである。
国家公務員であれ地方公務員であれ、公務員は就職したときに必ず誓いの言葉を述べる。
「日本国憲法を守り、全体の奉仕者として職務に専念することを誓います」
というものだ。しかしともすればこれが口先だけのことに終わってしまう。お題目ですませてしまう。間違いだ。やはりこの誓いの言葉を実践するのが、小田切アルバイトの"人形づくり"と同じことなのだ。"全体の奉仕者"というのは漠然としている。この人だという個人を頭の中に思い浮かべるわけではない。だからこそ小田切みきも、
「日本の ど こ か の 赤ちゃんと仲良くなれる」
と言い、特定の赤ん坊を指しているわけではない。しかしこの言葉は重い。その日以来ぼくは、
「この区のだれかさんを喜ばせたい」
という気持ちを持った。その考えは、五十一歳で東京都庁を辞めるまで続く。約三十年勤めたが、一貫して、
「だれかさんを喜ばせたい」
という気持ちを心の底で持ち続けた。


2009年10月17日

上半期査定面談。そして、これから。。。41歳の秋だから

1年1年が本当に早いです。
今年も残すところあと2か月半ですから。
ちなみにリーマンショックを引き金に端を発した"未曽有の経済危機、大不況"とやから1年。


あっという間だけに目まぐるしく環境、状況は変化していきますね。
世界も日本もそして我が社ぺルソンも。
この1年、確かに厳しい景況下の中、全スタッフが気合いとあの手この手と頭と体を使い何とか前進してきました。
春先以降からは、徐徐にはですが随所に回復基調を感じられるまでになってきました。
これも全スタッフの努力の賜物だと思っています。
(「メンバーのみんなこの1年本当に御苦労さま。でもこれからもまだまだ "気合いとあの手この手と頭と体を使い" だからね」)


10月1日からは、営業部に2名の新スタッフ サーファーの井上 希(いのうえ のぞみ)さん と 今年の4月に社会人になったフレッシュ鬼頭佑治(きとう ゆうじ)君が入社し新風を吹かしています。
既存スタッフにもいい刺激になっているかと思います。
ちなみに今年の1月のブログに 「結構 今年は 鬼 がキーだったりして」 なんて記載したのですが、本当にそうなりました。なんたって、鬼頭に希( キ とも読みますからね)ですから。
と、いうことで 有事の今は鬼に希を賭けてます。  (なぁーんて、我ながらうまいこというなぁー)


そして、先先週、先週にかけて上半期における査定面談をおこないました。
メンバー各人との面談の中で、非常に印象深かったことがありました。
それは、営業部のサポート職の女性メンバーなのですが藤原和博さんの講演に同行した際に相当の刺激とインパクトを受けたらしく、彼女いわく


「藤原さんの講演に同行し、いろいろなお話をさせていただく中で、仕事に対する考え方が変わりました」と。


私、この話を聞いて


"おっ!いいねぇー 久美ちゃん。その感覚。
それにしても意識を変えるくらいのプラスのインパクトに出会えるとは、本当に恵まれている仕事だなぁー。改めてこの講演ビジネス 素晴らしいなぁー。 藤原さん、ありがとうございます。"


と、思いました。


20歳代・30歳代前半は、こういった経験を多く通じてどんどん成長していって欲しいものです。
そして、30歳代半ば以降には逆に若い人の意識を変えるくらいのインパクトある先輩になっていって欲しいものです。


さてさて、かくいう私は。。。?


そういえば一昨日の15日に弊社主催の講演で、フリープロデューサーの木村政雄さんが言ってました。
「リーダー(上司)には、ある種ある意味での いい加減さ が必要ですね。 いい 加減(程度、ぐあい)ね。もっと言うなら部下に対しての"寛容性"とでもいいますか。」


私も同感です。
私は、ぺルソンではこの考え方で初志貫徹しています。ぺルソンのメンバーには。


なぜなら、少数精鋭の中、日々多忙の中、来期における事業計画<TENプロジェクト>の目標を達成させようと、先々月の8月からボードメンバー9名で議論し、更に10月からは3つ着手する業務のユニットプロジェクトチームを作り、今期の目標達成と並行して1年以上先の目標達成に向け今から取り組んでいるという意欲ある行動力のあるメンバーの集団組織なのですから。


だから これから も これでいーいのだ。 
(バカボンのパパは41歳、私も41歳。んーーー感慨深い。。。)


藤原和博さん 講演依頼情報

木村政雄さん 講演依頼情報


2009年11月11日

人間力

11月。。。!!
去年はリーマンショックの影響を受け、まぁー厳しい月でしたが、今年は順調に多くの団体様から引き合いをいただいていまして(誠にありがとうございます。)、少しずつ景気の回復を感じています。


そんな中、研修マーケットにレビューしますと、ここ数カ月において大手企業さんを中心にリーダー層、マネージメント層に向けた研修、研修系講演のお話を多くいただく機会が増えています。


しかもテーマは概ね             「人間力(徳)」 


仕組み、テクニック、理屈的な側面だけでは、真に強固な組織・会社は創れないと考える社長が増えている証だと考えています。


素晴らしいことです! 


と、いうかこういう現象を知れると日本人はまだまだ世界に立ち向かえる!
いや!世界のリーダーになりえる可能性を多分に秘めている!!
と感じます。


やはり、日本って素晴らしい!!


ちなみに今日、お話した大手金融会社さんは「人間力向上」と「ブランド力向上」も現在及び今後の最重要課題においているとのことだったのですが、その会話の中で印象的だったのが


「ブランド力も行きつくところ人間力に帰結する」


でした。


今のご時世まさにその通りだと思います。
(マーケティング、ブランドをかじったことのある人は実感いただけると思います)


そして、私もリーダーのはしくれ。
はしくれなりにビジネスシーンにおける人間力を向上させるエッセンスを考えてみました。


1、健康、元気、陽気(明るい)、勇気
2、素直、謙虚、好奇心旺盛、感性が豊か、経験豊富、基本人好き
3、理念・哲学(高い志)
4、ビジョン確立
5、戦略策定(仕組みが作れる)
6、3・4・5のメンバー共有(メンバーの何人を自分と同じ温度に近づけられるか)
7、実現させる情熱・気概(けっしてさじを投げない)
8、有言実行、率先垂範
9、約束を守る
10、人を慮る、思いやる、優しさ
11、でも、厳しい(時として鬼になる)
12、先見性、視野が広い
13、情報収集力
14、知識のつなげ方、絶妙なアウトプット
15、智恵
16、数字に強い
17、世の中と原理原則(自然の摂理)をどれだけ知っているか
18、情と理(利)のバランス
19、全体ステージ(レイヤー)を上げることを根幹としている
20、聴く力と表現力
21、変化対応力・柔軟性
22、ある部分いい加減(適当)
23、我慢できる(忍耐力)
24、判断力、決断力
25、決心・覚悟(腹くくれてるか)


と、あげればまだまだ。。。一生をかけて磨くものですね。


日々、精進です。


2010年1月 7日

寅づくし

明けましておめでとうございます。(遅ればせながら。。。)


さて、今年は寅年ということで私 正月は寅づくしで過ごしました。
寅といっても大好きな車寅次郎こと寅さんづくしです。
(男はつらいよ 1作から48作をそれぞれ最低でも3回は観賞しています)


柴又帝釈天でお参りし、寅さん記念館に行き車家を取り巻く環境を体感し、シリーズ48作の中でも私的に最高傑作だと思う17作「男はつらいよ 寅次郎 夕焼け小焼け」とファンの中でも人気の高い25作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」とシリーズで私がもっとも好きなセリフがある16作「男はつらいよ 葛飾立志編」を観賞しました。


何度観ても笑いあり、涙ありの愛と人情の人生劇場です。


16作「男はつらいよ 葛飾立志編」で、寅さんは 愛 って何か? と問われて


「ああ、いい女だなぁ、と思う。
その次には、話がしたいなぁ、と思う。
その次には、もうちょっと長くそばに居たいなぁ、と思う。
そのうちこう、なんか気分が柔らかぁくなってさ。
あぁ、もう、この人を幸せにしたいなぁ、と思う。
この人の為だったら命なんかいらない、もう俺死んじゃってもいい、そう思う。
それが愛ってもんじゃないかい?」


まさしく!


みなさん、愛のある人生を送りましょう。
今年もよろしくお願い致します。



2010年2月24日

「蠢」 と 「古代エジプト人の分数」で、やわらか脳 の必要性を実感

先週20日土曜日に母と妹家族で千葉の銚子方面へ向かう車の中で、何がきっかけか忘れましたが、母が 


「春の下に虫を2つ横に書いて(蠢)、何て読む?」


とクイズをだしてきました。


恥ずかしながら何て読むのか知らない私は、春の下に虫2つなので、やはり春の虫の名前だと瞬間的に思い込み、山をはっていろいろな春の虫の名前を言ったのですが、どれも


「ブー×、ブー×」


で、ほくそ笑む母は


「春先の虫ってどんな感じ?どんな状態?」 


と ヒントを出してきたのですが、そのヒントで私の脳(発想)は幼虫が成虫になる過程をイメージさせてしまい、更に虫関係の絵しかイメージできない深みにはまり、なかなか回答が言えないでいまして、とうとう母から


「うごめく よ」


と言われてしまいました。


言われてみれば 


「あぁー、そーねぇー、うごめく ねぇー」


なぁーんて感じで、平静を装っていたのですがが、内心は自分の想像力のなさ、思い込みから脱却できない堅い頭(やわらかくない脳)に少々の落ち込みと悔しさが混在して悶々としていました。


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そして話しは変わるのですが昨日23日、電車に乗っていまして学習塾が問題を出す広告で、


古代エジプト人は、分数を分子が1で分母が異なるいくつかの分数の和で表していました。
例えば2/5は1/5+1/5ではなく1/3+1/15というように。
(ただし、2/3だけは2/3とのこと。 なぜか...?)


と、いう文章を見かけ何故ゆえに古代エジプト人はこんな面倒な分数の表し方をしたのか?に興味が湧いて少々ネットで調べてみました。


そうすると、真相はわかっていないようなのですが、説というか憶測の範囲で以下の仮説を見つけました。


「エジプト人の数学は、恐らく土地の分割の必要性から生じたと思います。
ただし、彼らはその分割にも、神学を適用したと思います。
完全なる神の図形は「円」です。この円を半物ずつに分割していきます。
180度の内角を持つ半円は1/2です。
90度なら1/4、45度=1/8、22.5度なら1/16、11.25度なら1/32、5.625 度なら1/64(これらの総計に1/64を足すと1になります)。
これがホルスの目の分割として容積の単位となっているのはご存知の通りです。
白目は1/2、瞳は1/4・・・
ウジャト(完全なる一つの円)
=1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+1/64  と考えていたから、


分数は分子1でないといけないと信じていたのでしょうね。 」


んーなるほど。
面白い仮説だなぁーと思いつつ 
が、"これは古代エジプト人の一つの思い込み現象にも相当するなぁ"
と、思った瞬間 ふと 蠢く の自身の思い込み状態を思い出しました。


古代エジプト人には、もしかしたらもっと深い意味か、この分数の表し方の方が現代数学よりも数学的に高度になれて、ピラミッドを作る際の計算式とかでも具合がいいものだったとかの背景があるかもしれないのですが、上記を読んでる範囲では、一つの思い込み状態だと思うんですよ。


私的には、私の 蠢=虫の名前だ! 的な 構図と同じような気がしまして。。。


で、何が言いたいかと言うと 信じる ことは大切なのですが、思い込み はいかんなぁと。(思い込みは、発想を制限させてしまいますからね。)
いろいろな発想がでてくる やわらか脳 が大事だなぁ と 思ったわけです。


まぁ、そんなことは誰でもそう思っていることですが。。。


肝心なのは、やわらか脳 になるためにはどうしたらいいか? と いうことですよね。


ちなみに凡人である私が考えるに、、、


やはり多くを経験し、多くを学び、多くの知識を蓄積し常にいろいろなことを想定し
考え(この訓練が豊富な知恵力になるかと)、行動していき、生理的に脳によいこと
(例えば、脳によい食事(まぐろの目玉等一部の魚に含まれるDHAは脳によい
と言われていますが、脳科学の権威である茂木健一郎さんが言うには「自身が懐かしくも美味しいと思える食べ物、カレーとかハンバーグとかが、脳によい」と言ってましたね。)を適切適度にとり、適度な運動、適度な悦楽、適度な時間の快眠)を日々していくことかと。


如月に
櫻がつぼみ
膨らませ
はな が蠢き
春を感じる


昨日から、花粉症で鼻がむずむず、目がかゆかゆで脳機能も低下している今日この頃です。



2010年4月 8日

拝啓 坂本龍馬様

2008年8月下旬に2010年1月から「龍馬伝」というタイトルの大河ドラマが始まることを知ってから早19ヵ月。(2008年9月に「龍馬伝」への期待を綴っています
「龍馬伝」がスタートしてから3ヵ月少々。


最初は、軟弱すぎる龍馬に少々不満でしたが観て行くうちに龍馬の"やさしさ"にフォーカスしていることに気づき、それからは進化し成長していく龍馬が楽しみで毎週心待ちにしている次第です。
また、映像も私が好きな映像(最新の映像技術のようです)を使用しており、かなりリアルに幕末当時だよなぁーと思える"さびれた"雰囲気をみごとに描写していてかなりイケてますね。
巷でも、かなり龍馬ブーム到来のようですから。


4月4日(日)から第二部ということで、龍馬が脱藩したところから物語は始まるのですが、龍馬は脱藩を期に相当人間が進化しています。
(ドラマの中でも、香川照之演じる弥太郎が「龍馬は今までとは違う別世界の人間になっていた」的なセリフがありました)
実際、そうだったのでしょう。
龍馬は、脱藩を期に相当に腹をくくったと思います。
坂本家はとり潰しにはなりませんでしたが、そのために兄の権平がかなりの金銭を使ったと言われていますし、また次姉の栄が罪をかぶって自害したという話(説)もありますから、龍馬はこの時に相当感慨深いものがあったことでしょう。
それが、人間を大きくさせたのかもしれません。


そして、龍馬の人生を劇的に飛躍させた勝麟太郎との出会いがこれからあるのですが、勝麟太郎との出会いを期に世に羽ばたいていく龍馬の今後の活躍が楽しみです。


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拝啓 坂本龍馬 様


私は、高校1年生の冬に「龍馬暗殺」という映画をテレビで観て龍馬さんに興味を持ちました。
(ただ、この時は龍馬さんというよりも龍馬役の原田芳雄さんが、あまりにもかっこよかったので、原田芳雄さんの龍馬さんに興味を持ったと言った方が正しいですが)


それから1週間後、当時めったに本屋になどいかない私は何かに導かれるようにたまたま本屋に立ち寄り、「竜馬がいく」を見かけ1巻を手にとり1時間程立ち読みし、全部読みたいと思い全8巻を購入(いつもだと財布には3千円程度しか入ってないのが、この時はたまたま1万円を持っていたという偶然。。。なのか。。。いや必然)し、あまりのおもしろさに授業中も読みあさり、3週間ほどで全8巻を読んでしまいました。


「こんな魅力的で素敵な人がいたんだ」と、感動しました。
龍馬さんに近づきたいと話し方も土佐弁をまね、靴もブーツを履いたものです。
(ちなみにこの25年間 今も、龍馬さんと同じブーツを履き続けています)


そして、高校2年の修学旅行では、四国4県を各クラス好きな県へ行ってよいということで、私はどうしても高知県へ行きたくクラスのみんなを説得して高知県へ行きました。
桂浜、龍馬銅像、高知城すべてが興奮と感激でした。


それからは、龍馬さんが私の生き方の軸になっています。


特に私が更に龍馬さんを好きになったのは、高知県坂本龍馬記念館に保管されている印藤聿宛の書簡で、「万物の時を得るをよろこび」という言葉(観念)です。


幕末というまだまだ身分制度が色濃い時代に"万物がこの世に生を授かり、生きているこの時を喜べる世の中を創りたい"という龍馬さんの観念に私はなんと龍馬さんは、愛に満ち溢れている人なんだと感動しました。


この観念は 私、人生の指針としています。
ちなみに「万物時喜」という言葉として私の座右の銘ともしています。


今思うと、16歳という多感な時期に龍馬さんと出会えた事は私の宝であり、なんと幸運な男なんだと思っています。


龍馬さん、私に生きる喜びを与えてくれてありがとうございます。


私も微力ながら、「万物の時を得るをよろこび」を実践していきますので、見守っておいてください。


                                             鈴木勝彦 拝



2010年5月28日

かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂

先日、弊社エントリー講師の角盈男(すみ みつお)さん(元プロ野球選手でジャイアンツ、日本ハムで活躍した左のストッパー投手)が経営する恵比寿のBarに1周年ということで、弊社代表の渡邊と一緒に飲みにいきました。


お店の雰囲気は、昭和レトロそのもので40歳以上の人には懐かしくも落ち着く演出が随所に見受けられます。
店名は「昭和歌謡曲バー m一129」といいます。


角さん、渡邊と話していると、スポ根アニメの金字塔「巨人の星」のテーマソングが流れ当時と今のスポーツ青年の根性論についての話しになりました。


昔は、練習中にどんなに喉が渇いても水は飲めない、膝によくないと知りながら長時間のうさぎ跳び。
と、結構体に悪いことをやらされていました。
(私も高校まで野球をやっていましたので、まさにこれをやらされていました)


今の環境では、こんなことをしているところは恐らく皆無かと。


では、なんで体に悪いと知りながらそんなことをやっていたか?
なんですが、まさに精神論的に言うところの"根性を鍛える"と、言ったところでしょうか。


精神的に未熟な若者に根性力を向上させていかせるには、限界なまでに日々体を酷使させ、異常なまでの努力を継続させていかせることが大事という観念が一般的で、まだまだ軍隊精神の名残があり、その行きすぎた行為だったと思います。


だから途中で、「無理です、無理です」なんて言って、やめるなんていゆ行為を許さないまた許されないという風潮が色濃くありました。
(ただ、それがもとで大怪我や病気に発展し選手生命や人生をくるわされた人も多くいたことだろうと思いますが)
忍耐と我慢の世界ですが、意外と私嫌いじゃない世界です。


なぜ?か。。。そういう世界って、いつのまにか自分自身が望んで行動していく観念が生まれてくるからだと考えているからです。
途中でやめる 話しなんかだとわかりやすいかと思うのですが上記の世界観に身を置いていると、途中でやめる自分を許せない的な気持ちが生まれてくるんですよ。
で、そういう環境が普通だと勇気とか美談とかが生まれやすく人間同士の感動とか喜怒哀楽がむき出しになるというか。


ここ最近大ヒットしたドラマ「ROOKIES」なんてまさにその構図だと思うんですよ。


と、考えると日本の心(大和魂)はまだまだ消えてないんじゃないかと。
奇跡の国、日本ですからこの精神無くしたくないですね。


かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂
                               (吉田松陰)


かっこいいです。



2010年7月21日

宿命と運命

「天に軌道がある如く、人それぞれに運命を持って生まれ合わせております。」


とは、私の人生バイブルの1つ 男はつらいよ 寅さんこと車 寅次郎の名啖呵売。


ちなみにこの啖呵売、天に軌道がある如く と言うならば運命ではなく宿命の方が合致するのでは?
と、思ったのは私だけでしょうか?


最近、「本当にいろいろな人がいるなぁ」「人生って、わからないものだなぁ」と考えることが多く、ふと上記の事が頭に浮かびブログしてます。 
久方ぶりのブログで、恐縮かつ2ヶ月近くも書いていないと見てくれる方もどんどん減るのは、わかってはいたのですが。。。久しぶりに書かせて頂きます。


さて、本題ですが
宿命は生まれた時にその人の人生で、すでに決まっている変えようのない天の定めと私は考えています。
運命は逆に自分の意思や努力で、いかようにも人生が変わるものだと考えています。


天に軌道がある如く と 前置きするのであれば やはり運命ではなく宿命かと。。。


ちなみにこれは私が約42年間生きてきての経験値からの感覚ですが、人生は60%が宿命、40%が運命のような気がしています。


と、なんだかネガティブ思考のような物言いですが、然に非ず! 
40%も自分の意思と努力で自身の人生を拓けさせられると考えれば、なかなかなものだと思いませんか?
あとは、60%の宿命を逆らうことなく素直に受け入れ自身の意志と人生にうまいこと折り合いをつけていけばよいことかと思います。
(しかし、生きてゆく上でこれがなかなか難しいところですが。。。
逆に自身の宿命に常時納得感というか感謝ができる人は、幸せな人生を歩んでいる人かと思います)


そう考えると、すべては自身の考え方によるところ と、言ったところですね!!


で、あれば
「天に軌道がある如く、人それぞれに運命を持って生まれ合わせております。」


が、何故ゆえに 運命 かがわかる気がしてきました。
人は、その人の意思によって生きていると思えると勇気が湧きますね。


ちなみに"あの人は、運がいい"とかよく言いますが、運も実力のうち。
その人は、意思を持って運が転がってくるよい生き方をそれまでしてきていると思います。(まぁ、もっとも 人間万事塞翁が馬 で、常に運のある人なんていなくトータルでみての話しです。)


ただ世の中は摩訶不思議で、悪行を重ねても運がある時がある時期もある人もいるものですが。。。
(そういう人は、もしかしてその人のご先祖様の誰かが、よい生き方をしてきたのかもしれませんね。悪運ってやつですかね。。。)


が、しかし「天網恢恢 疎にして漏らさず 悪の栄えたためしなし」とはよく言ったもので、必ず反転するものです。


真っ当な意思のもと誠実な人生を歩んでいきましょう。


2010年8月10日

"コツ"

「押してダメなら引いてみろ」とは、恋愛や顧客との取引を成就させるにあたっての一つの"コツ"だと思います。


物事をうまく運ばせるには、それぞれの状況・環境に応じた"コツ"を見いだせるか否かで、成果が大きく変わるものだと思います。


私が、心底そう思えるようになったのは弊社エントリー講師の金田一秀穂先生の祖父である言語学者の権威 金田一京助(歴史上における偉人につき、あえて先生とも 氏とも さんともつけません)がアイヌ語を自身もまた日本人の誰一人、理解できていない状況の中、研究に取りかかるにあたって当初は、まったく言葉が理解できず何一つ進まない中、思案の末、ある事に気づき、ある事をしたことで飛躍的な成果をもたらした と、いう話を10年程前に聞いた時でした。


さて、金田一京助のした ある事 とは、何だと思いますか?


知れば、なるほど。人によっては なーんだ そんなこと と思うかもしれませんが、これを見出したというか発見した頭脳と実行した行動力が私に言わせると 天才!だと思わざるえません。


で、私は凡人なので先人が見出し発見した数多くの状況・環境に応じた"コツ"を知れるか。そして、それを 機を見て敏なり で、使えるか また応用できるか だと思いました。


これもまた生きる上での"コツ"かと。












さて、正解は。。。












金田一京助は、訳の分からない絵を描いた紙をアイヌ人に見せ、その反応から「何?」という言葉を聞き出すことに成功し、ここから膨大なアイヌ語の単語を一つひとつ聞き取り調査で記録するという地道な事業をスタートさせた。


2010年11月17日

46億年の神秘と瞬間における人間の凄まじい進歩

今朝のニュースや新聞で「日本の探査機"はやぶさ"が3億キロメートル離れた星から小さな砂の粒を持ちかえっていた。人類が月以外の星に着陸して"もの"を手に入れたのは初の快挙。砂の粒を研究していったら、もしかしたら46億年前に誕生したと言われる地球や太陽系の誕生と起源について、驚愕の発見がもたらされるかも。。。」


とのこと。


ロマンがあるなぁ と、思っていたら ふと 10年程前に読んだ英語学者でもあり歴史にも造詣が深く歴史書も数多く執筆している渡部昇一先生の著書(著書名は忘れました。。。)を思い出しました。
その著書には


46億年前に誕生したと言われる地球ですが46億年を1年とし、地球誕生を1月1日午前0時スタートとした場合、人類有史(西暦)約2000年間はどの程度の時間を占めるか?


と、いった問いがあり 私は「んんん???、1時間くらいかな?」と漠然かつ感覚的に思った記憶があるのですが、確かなんと答えは14秒!!。
と、いうことは一般的に言われている紀元(西暦)の始まりであるキリスト誕生は12月31日の23時59分46秒!!かよ!!と驚いた記憶が蘇りました。


今日、それを思い出したらこれまたふと...


現代の人間に最も近い人類誕生を20万年前の新人・ホモサピエンスだとしたら同上の算定式に当てはめて考えると人類が地球に存在してから


23分3秒。
(200,000/2,000=100。2,000は14秒なので100×14=1400秒。分換算すると23分3秒。)


地球誕生46億年を1年に置き換えた場合、人類は1年という年月の中でまだたった23分3秒たらずしか存在してなく、ホモサピエンス誕生は12月31日の23時36分57秒。


あっ! という間です。


そう考えると、人間は凄まじい速さで進歩していると思いませんか?
しかもこの150年(1年換算だと本当に"あ"一言もいう間もなく)くらいで、凄まじく人間を取り巻く環境が進化しました。


ホモサピエンスが10万年前にアフリカから世界へ広がるのに長い年月(5万年とか6万年)をかけて移動したわけですが、現代人はこれからどれだけの年月存在し、どこへ向かうのでしょうか?


ちなみに地球は誕生して相当の間26時間かかって自転(1周)していたそうで、徐々に現在の24時間に近づき今の24時間弱になったようです。
と、いうことはこのままいくと地球はどうなるのでしょうか?


"ほんまでっかぁー?!"



2010年12月17日

不動産の西高東低は人間の性質から かぁ? を考えるとある部分ビジネスの原点がみえてくる ような気がするぅ

先日 弊社関連会社アマ―イズ社長の山本さんと学生時代からの友人で現在イベント企画・運営をしている敏腕プロデューサー 社長 阿尻君と飲んだ時、住まいの話しになり山本さん、阿尻君の2人は渋谷を軸に西方面(世田谷区)で、私は東方面(墨田区)。
不動産価格やブランドを西高東低と聞くが何故か?


作為的に意図されてそういう現象、状況が作くられたのか?
それとも自然とそうなったのか?


突き詰めると恐らく 自然と だと思う。(ある段階から意図的にだと思いますが)


理由は以前、あるテレビで「人間は朝日に向かって行く性質がある」と聞いたことがあるのですが、恐らくそれかと。(ちなみに人の性質って、かなり自然的なことに含まれると思うんですよ。)


勘のいい人はピン!と来たかと思うのですが、要は 人間朝は東に行きたがる っーことで、ということは寝に帰る方向は逆の西なわけで、結果として西に住宅地が多くなり多くなっていくぶん人気が上がり、結果価格も上がるという論法かと。


で、とある昔 それなりに多くの人が行き来する とある地域において、人の流れがそういう流れにある予兆とトレンドになることに気づいたある人が、朝及び日中に人が集まる場所の逆方面にそのある人にとって具合のよい場所を意図的に富裕層が喜ぶ住宅地(街並み)へと開発し、ブランドになっていったのではないかと。
(僕の中では東京においては、大正時代初期頃からそういう事が始まったような気がするのですが。ちなみにある人の代表は、さしずめ渋沢栄一翁あたりで、場所は田園調布かと)


話しの前置きが長くなりましたが、上記から人間の性質を知ることはビジネスに繋がるっーことになるかと。
人間性質学ってあるんですかね?
生態学は学問として存在しますが、それとは違うし心理学や人間行動学に含まれるのですかね?


人間の性質や習性を多く知っている人か著書があれば出あいたいです。


そうそう、話しは変わりますが高杉晋作は散切り頭にした際「東行」という号にしてますが晋作は、人間朝日に向かう(=朝は東へ行きたがる)という人間の性質を知っていたのですかね?(まぁ、晋作は何も朝に限ってとは表現してないですけど)


生きてると疑問がつきません。


「西へ行く人を慕いて東行く我心をば神や知るらむ」(高杉晋作)



2011年1月21日

ある社長の覚悟と我慢の物語

とある昔、ある町に寂れた商店街がありました。
商店街の店主のほとんどは、親やご先祖様の恩恵で店の地代を払うことなく商売ができる人がほとんどでした。
しかし、その商店街のほぼすべての店の売り上げがジリ貧で年を追うごとに落ちてゆきます。


商店街の店主達及びその家族は、本気になって店を商店街をなんとか盛り上げようという気概はなく、真剣に考えることをせずに日々を過ごしていました。


それでもまぁまぁに家族が生きていけるがゆえに。。。


が、その店主達や家族には明るい希望はありませんでした。


そんな中、商店街のすぐ近くにとある大型量販店(仮称:Aスーパーマーケット)が1年後にできるという話が商店街に広まりました。
店主達とその家族は、異口同音に


「今の商店街の状況で、Aスーパーマーケットに出店されたらそれこそ我々の商売は上がったりだ!断固、反対運動をしよう!!」


と脅威と怒りをぶち上げて、店主達とその家族はAスーパーマーケットへの出店反対運動をおこないました。
使う頭とエネルギーの矛先を誤り。。。


そして、その運動はマスコミにも取り上げられAスーパーマーケットは情勢的に不利な状況へと追い込まれていき、Aスーパーマーケットの上役の中にも「あの町への出店は見合わせた方がよいのでは?」という意見もちらほらでるような様相になってきてしまいました。
Aスーパーマーケットの社長もこの件については、頭を悩ましていました。


「出店すべきか止めるべきか。。。」


しかし社長は出店することをある覚悟と決意のもと決断しました。


数日後のある日、Aスーパーマーケットの役員が社長に出店見合わせの相談をしたところ社長は


「あの町に出店することは、必ずあの町と近隣町のかつ商店街の人達の"ため"になる。
また我々はそういう"ため"になる状況をAスーパーマーケットを通じて実現していくことが使命だよ」


と、役員に話しました。


2年後、Aスーパーマーケットには町の人達はもとより近隣町からも買い物にやってくるお客さんが多く商売は繁盛していました。
その代り、商店街は無くなりマンション建設が着工されていました。


社長が店内を回っていると、そこには何十人もの商店街の店主だった人達やその家族が笑顔で働いていました。
テレビでもAスーパーマーケットの商売繁盛状況は取材され、その訳が多くのスタッフのたゆまぬアイディアやサービスの良さ及び社員への報酬の良さ(ESの高さ)にあると報道されました。


商店街の店主だった人達及びその家族は、生きることに希望を見出し喜びを実感する日々を過ごせるようになりました。


ただし、最後までAスーパーマーケットと衝突し他の町に一家で引っ越しAスーパーマーケットで働くのではなく、他の会社で働き以前よりも厳しい経済環境で暮らす家族も2割程はいるようです。


それから10年後、社長が店内を回っているとそこには何十人もの商店街の店主だった人達の息子さんや娘さんが笑顔で働いてました。
その中には、一家で引っ越した家族の息子さんや娘さんも働いていました。


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この話を知った時、私はリーダーには


「覚悟と我慢」


が必要だと学び全体の底上げになるのであれば迷わず決断し、断行できる人間になりました。


皆さんは、どう思いますか?


2011年2月15日

鈴木勝彦的 アイディアの出るメカニズム

2月9日 日経産業新聞の「眼光紙背」での一文で

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ある食品スーパーの店頭で節分の日の夕方、売れ残りそうな恵方巻きの山を前に販売担当者は天を見上げた。


大幅な値引きをしたくても縁起物だったり、予約販売をしたりした手前、価格の変更はしづらい。
閉店時間も気になってしまう。


そのとき、現場のパート社員が発した言葉が苦境から脱するきっかけとなった。


「太巻きにして売りましょうよ」


恵方巻きのパックを解体し、恵方巻きを包丁で切り、太巻きへと早変わりさせたのだ。
恵方巻きの売れ残り危機は回避され、生まれ変わった太巻きは売り上げにも貢献できた。
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恵方巻き
※節分に食べると縁起が良いとされる一本太巻き。
大阪を中心とした風習ですが、ここ数年商業的催事として取り扱われ全国的認知度も上がっています。
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この文章を読んだ時にこのパート社員は、主婦で年齢は30歳代、小学生くらいの子供が二人くらいいて、料理のやりくりがうまい(限られた予算や冷蔵庫にある残り物材料で結構な料理を数品ちゃっちゃっと作れてしまうような)人なんじゃないかとイメージしました。
と、いうのは「太巻きにして売りましょうよ」というアイディアが出る以前に日々の料理作りの中で、似たような体験・経験をしてきたのではないかと思うんですよ。


逆に販売担当者は男性で、日々の生活において限られた条件の中でやりくり上手に料理なんか作ってきていない人だと思うんですよね。


そこで更に思ったのがアイディアの源泉は体験・経験(=知識)で、それを応用して活用できるか否かは恒常的に多面的かつ深く考え続けることで養われる思考力(=知恵)で、絶妙のタイミングでアイディアが浮かぶか否かは、その人のセンスと運なのではないかと。
では、センスと運を引き寄せるには?


今まで、どれだけの体験・経験をしてきてそのプロセスにおいてどれだけ恒常的に多面的かつ深く考えるということをし続けて生きてきたかどうかが関係するかと。


でも、担当販売者は経験の浅い人だったのですかね?
ベテランなら過去に売れると思ったものが売れないなんて経験それなりにしてきていると思うのですよ。
だとすれば、予め数日前から売れなかった場合どうするかを考えて妙案が浮かばなかったらスタッフ(パートさん含め)に「売れなかったらどうしたらいいか?」と話してアイディアを募ればよかったと思うんですよ。


もしかしたら あんまり考えて生きてこなかった人なのか。。。


いやいやそれはわかりませんが。。。でも、別の角度で考えると意外とこの販売担当者の件においては日本人気質的なものを感じるところもありまして、、、


それは何かというと、売れなかったら。。。 なんてネガティブケースな事を考え発言しようものなら周りからどう見られるかの恐れ(その食品スーパーの組織体、特に上層部がそもそもネガティブ意見を受け付けない体質ならなおのこと)や本当に売れなくなるんじゃないか?とか言葉の魔力に呪縛されリスク対策の発想がゼロになり、むしろ"絶対売れる、売れないわけがない"という過信に走る的な。


第二次世界大戦の日本ってまさにそういう状況だったかと。
また、現在においても日本人は危機管理能力が他国に比べて低いなんて言われてますね。。。


そういう意味においては、組織に属する人は、その組織の体質、風土、文化というものもアイディアが浮かぶかアウトプットできるかに影響するものかと。


ちなみに逆張り(何が逆なんだよ?って言われるかもですが、トーク発言的な流れとして聞き流してください)で考えると組織の体質、風土、文化のあり方次第ではアイディアの泉が実現できる可能性があるとも言えますね。
そういえば、ネットワーク機器のシスコは最近こんな状況を作り上げて絶好調みたいです。


でも、話は飛びますが何もかもが想定通りにいかないのが世の常。
予定調和でないところにスリリングなドラマがあり、火事場の馬鹿力があるから人間は面白い。


食品スーパーの閉店後は、販売担当者とスタッフ、パートさんで大盛り上がりの祝杯が交わされ、普段では話さないような話で更に大盛り上がりしたと思います。
こんな状況、環境もアイディアの出るメカニズムのひとつかと。



2011年4月18日

なぜ? どうして? の次は どうしたいか! どうする! どうすればいいか!

3月11日の震災から39日。
その間に弊社16期が終わり、17期が始まり。。。


被災地の方々を思えば私はあまりにも恵まれている状況だと理屈では考えられても、この1ヶ月の間でいくつかの計画や目論見がその通りにいかず、限られた時間の中での判断・決断・迷い・対応・軌道修正があり、今までにない目まぐるしさと心理的重責、負担が多い日々を送り、いささか感傷的になっていたこともあった日がままありました。
被災地の方々を思えばそんな事、思っている場合じゃないとはわかっていても。。。


でも、こんな弱音を吐いていたら被災地の方々に申し訳ないと、ある段階からとにかく僕は僕のやるべきこと、仕事をやろう! と徐々に思えるようになり日を追うごとにこの思いの方のウェイトが増し、その後のマインドは極めて迷い無しの前向き状態になっていきました。


そう思えるようになった要因はいくつかありまして、一つは弊社メンバーが震災後から今日まで主催・運営及び講師対応において本当によくやってくれたことです。
心からありがとう と、思っています。
これは、僕が前向きになれた大きな要因です。


また、講師の先生方もこの度は事態が事態なだけに主催・運営の決断において快く了承いただくことがほとんどで、本当にありがたく思いました。


世の中 助け、助けられだと心底思い、これは関係する方々に仕事で報いなければと思った次第です。(それがめぐりめぐって世の中にも報いれることだと思っています)


そう思うと、私的に今、大事なのは起こったことになぜ?どうして?と考える以上に今後の理想を設定し(どうしたいか!)それに対して、

       
        どうする! より理想に近づけるにはどうすればいいか! 


という発想と行動が肝要だと考えます。


前回のブログの続きにもなりますが、原因を究明してもそれをもとに未来に対する 


        どうしたいか! どうする! どうすればいいか! 


というアクティブなアクションがなければ、私的には原因を究明してもそれはあまり意味の無い事のような気がしてまして、人が発展してきた源は原因究明の次に(場合によっては原因究明などすることもなく、と、いうのは今回の地震がなぜ起きたか?なぜ東北・関東エリアなのか?を究明しても私的にはあまり意味がないことなんです)すべて未来に対してのアクティブなアクション 


        どうしたいか! どうする! どうすればいいか! 


にあると思っています。


この考え方は、すごく前向きになれると思いませんか?



2011年5月31日

幸せの"黄金律"

"人にしてもらいたいと思うような事を為し、人からしてもらいたくないと思うような事はしない"


"黄金律"は、道徳哲学的に普遍的な教訓と言えると思います。


が、実社会における人間関係で、すべてにおいて そうか と、言われるとそうでもないような気がしませんか?


特に最近思うのですが、多様性の現代において自分のされたい事すべてが果たして他人もされたい事であるのか?
って思うところがありまして。。。


(まぁ、自分がされたくない事は人にしないというのは、極めてリスク発生が少ないので
ほぼほぼありかと思うのですが、それとても功利主義的見地に立たされた時には、対極する人に場合により為さねばならない事、時もありますが。。。)


でも、かと言って為す事に憶病になって為さなければ事は進まないわけで、人がどう思おうが、言おうが、自分が良い(ただ、世のため、人のため、自分のためになるというロジックがあるかが大事ですが)と、思った事は為して行くしかないのですが。
そこに人としての葛藤が付きまとうのですけどもね。


ただ、42年9ヶ月生きてきて思うのは


自分が良いと思って人に為した事で、結果的に(場合によりのちのちでも)その人にベネフィットを提供できたら、その人がベネフィットを感じられたらOKなんじゃないかと。


ただ、私の考えですが
どうも知的レベルの高い人であればあるほどベネフィットは経済的(金銭・物質)利益だけではだめな様で、それ以外の、、、例えば精神的心理的な便益をいかに感じてもらえるか というのも大事で、これは人(相手)を観て察し、為し方とタイミングが肝要な気がしています。
ただ、これが難しいですね。
(これが全てに為せる人は、人(人生)の達人の域に達している人だと思ってしまいます。)


これが人に為す事、全てにできたら自分は幸せでしょうね。


でも、ちょっと考えると幸せって自分がそう思えるかどうかですね。
そもそも 幸せ って漢字
もともとは「手かせ」(手錠のカタチ)からきた象形文字のようで、古代 刑罰が重かった(軽罪にも関らず死刑みたいな)中、手かせの罰で済んで(死刑にならなくて)よかったぁー⇒運が良かったぁー的な意味が転じて しあわせ って読み言葉になったみたいですからね。


まさに考えようだと思いませんか?


ちなみに 幸 の逆は何だ?
と、問われたら何と答えますか?


私は、幸 ですね。
(紙に 幸 と書いて逆(180度回転させて)にしてください。)


私の 幸せの"黄金律" は 自分の考えよう ですね。


為せば成る 
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり
          (上杉鷹山)

為すは人、成すは天 です。


2011年7月15日

それぞれの使命と役割

リクルートエージェント在籍時代にお世話になった先輩(現在 物語的経営支援 という事業をコアとした株式会社クロスロード代表取締役社長 辻口寛一さん)が定期発信しているメルマガを読んでふと思い出した事がありブログしています。


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【辻口さんからのメルマガ】


みなさんは、「釈迦、孔子、キリスト、ソクラテスの共通点」をご存知ですか?


実は、四人とも「自らの思想を書き残していない」のです。


それなのに、彼らの思想が広く後世に伝わったのは、なぜでしょう?


もちろん、「彼らの思想が優れていたから」。


そしてもう一つ、「彼らの思想を書き留めたものがあった」ということも、大切な要素ですよね。


どんなに優れた思想も、書き留められなければ残らない。


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伝えることに卓越した人が別にいた という事実もあるなぁ。


室町時代中期から現在にかけて日本最大の宗教団体 浄土真宗 の宗祖・親鸞の教えを世に広めた天才的プロモーター蓮如がそれです。


でも、私の知るところではその布教活動は日々民衆にわかりやすい説法をしていたというだけではなく27人の子供(5回結婚をしているんですが)のほとんどを息子は重要拠点寺に派遣したり娘は有力寺院に嫁がせるという戦国大名なみな政治的工作もあったようです。
(が、ゆえに信者をとられる他宗派から相当攻撃されたらしいです。当時の僧侶は武装集団的要素を多分に含んでいましたから攻撃も心理戦でなく武力そのものだったと思います。)
もっとも人間として俗を許容し、聖人というよりも民衆よりの人だったようなので大衆からは当時、みなさんもよくご存じの一休さんと共に抜群の人気があったようです。


それも含めてプロモーションの天才なのですが、でも親鸞にはなぜそれができなかったのか?


その能力がなかったのか?
自分の得手不得手を心得ていたのか? 
それとも思想をより至上のものにするために全精力を費やしたからか?


また逆に蓮如は、浄土真宗(親鸞の教え)という存在がなかった場合でも同じような(日本最大級の何か)状況環境を作れたのか?


わかりませんね。。。


ただ、僕が思うのは生まれながらに親鸞も蓮如も神から与えられた的なそれぞれの使命と役割(宿命)だったのかと。


蓮如は、親鸞の10世代後の孫 ってところが何か因縁深さを感じてしまいます。


2011年10月19日

「立方体で捉え、複眼的に考える」

弊社にて懇意にして頂いている講師で、藤原和博さんがいます。


リクルートに30年在籍し、2003年に都内義務教育初の民間人校長(杉並区立和田中学校校長)を務められたことで話題になり、5年の任務期間中には大変ユニークな教育プログラムを取り入れられた事でも話題になりました。
現在は、東京学芸大学客員教授としてまた大阪府知事特別顧問として次世代を担う人材の育成・指導及び教育分野における改革に取り組んでいます。


そんな藤原さんが、今日(10月19日)の日経新聞朝刊で
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成熟社会の今日では正解は1つとは限りません。
その時々の状況に応じた最適解が求められます。
それには知恵を働かせ、付加価値を生み出し、自分自身で問題を設定する能力や、それらを支える情報編集力が必要になります。


情報編集力を養うには、正面からだけでなく、様々な角度から物事を考える複眼的な思考(クリティカル・シンキング)を鍛えることです。
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と、いうコメントをされています。


講演においてもこのコメントは必ず盛り込むのですが、それだけ現代人において藤原さんが重要視しているからこそだと思っています。


私もリクルートの関連会社(現リクルート エージェント)に10年近く在籍していたので、藤原さんの言われる事がとても感銘・共感できます。
上記のような考え方が自然と身につく会社(風土、文化がありました)だったからでしょうか。


ちなみに「正面からだけでなく、様々な角度から物事を考える複眼的な思考(クリティカル・シンキング)を鍛える」ことは、人としての深みや懐の広さ いわゆる人間力的要素を養うことにも通じることかと思っています。


物理的に子供の視野角度は、大人の視野角度よりも狭いのは皆さんご存じのことですが
これは、子供と大人の体質的要素ももちろんありますが、様々な経験を通してまさに「正面からだけでなく、様々な角度から物事を考える複眼的な思考(クリティカル・シンキング)を鍛える」ことを大なり小なり無意識にも日々おこなっているからこそだんだんと視野角度が広がる側面もあるかと思っています。


更にこれは私様式なのですが、物事・事象を いかにして立方体で捉え、複眼的に考え、的確な行動を判断、決断するか ということを日々意識しています。


藤原さんの言う 正面 だと2次元の表面でしかわからないですからね。


ヒト及び大部分の生物の視覚は2次元ですが、角度を変えて見ると実は幅、高さ、奥行き、深さといった3次元で物事、事象は成り立っているわけで、更にその体積を大きく捉えられるようになればなるほど人間力が養われるような気がします。


ちなみに体積(と、その中身・構造)を大きく捉えられるかは、その人の心の目とでもいいましょうか、豊富な経験からでてくる想像力、仮説設定力がポイントになると思います。


人間力が至高の域に達していけばいくほど、この想像力、仮説設定力が的を射ていて的確な行動を判断、決断できるようになるのだと思っています。


事実を知り、真相を察する 日々、精進です。


2011年11月10日

ユニークな視点

講演依頼.com 登録講師で 富田英太さん という店舗経営コンサルタントがおります。


講演の依頼も何度もさせて頂き、私も一度拝聴させていただいた事があるのですが着眼点や発想が、とてもユニークな方です。


そんな富田さんに定期的にメルマガを送っていただくのですが、本日送って頂いたメルマガで、富田さんの会社のスタッフ藤岡さんが書いた本のさわりが、とてもユニークだったので紹介させて頂きます。
(代表の富田さんがユニークですからスタッフもユニークになるものですね^^)


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こんにちは、店舗経営コンサルタントの藤岡です。


今回、『「ワンピース」はなぜ人の心をつかむのか』というタイトルで、ONE PIECEの事例を基に、組織や戦略について本を書かせていただきました。


今回の本は、下記のセクションに分けて「戦略」「組織構築」についてまとめました。


第0章 、なぜ経営にも「ONEPIECE」なのか
1.漫画『ONEPIECE』の魅力
2.一人ひとりが大きな目標を持とう
3.失敗を成功につなげるために
4.失敗しても悩みすぎない
5.アイデアより想いの強さが大切!
6.「組織」は「人」である


第1章 ルフィに学ぶリーダーの「あるべき姿」
1.どのようなチームを目指すのか
2.リーダーは「ビジョン」を示せ
3.成功と失敗の違いはどこで生まれるのか
4.リーダーは「決断」する勇気を持て
5.目標達成のために何が必要なのか
6.「志」と「情熱」が人を動かす


第2章 麦わら海賊団の「組織」と「戦略」
1.リーダーと戦略家の違い
2.弱者が強者に勝つ法
3.「思いつき」と「ひらめき」の違い
4.「トップダウン」と「ボトムアップ」
5.「時間」を味方にする
6.できないことは専門家に任せきる


第3章 仲間の力をこうして引き出せ
1.仲間一人ひとりの特長を把握しよう
2.責任と権限を与えよう
3.強みを活かし弱味を打ち消す
4.コミュニケーションはシンプルに
5.仲間と真剣に向き合おう


第4章 「信頼」が組織を強くする
1.まず目標達成に必要な仲間を集める
2.目標達成に必要な武器を揃える
3.組織に必要なルールを決める
4.仲間の信頼を得るためには?
5.「別れ」を前向きに受け止める


第5章 リーダーがやらなければならないこと
1.まず目標到達点を決めよう
2.優先順位を仲間全員で共有する
3.率先垂範こそリーダーの務め
4.足りない部分は補い合おう
5.弱さを認めるタフな心を持とう
6.今あるものに目を向けよう


第6章 チームワークとは何か
1.「チームワーク」は全員で築くもの
2.認め合い、任せ合い、助け合う関係
3.「気配り」と「目配り」と「心配り」
4.やりたいことを精一杯やれる環境をつくれ
5.比べるのは「他人」ではなく「自分」
6.成果を分かち合うことが絆を深める


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いかがですか?


かなり、ユニークな視点及びそそられる目次じゃないですか?
漫画が、人生・ビジネスのバイブルになることはよくあることですがかなりビジネス書的に仕上がっている感じがします。


ここ最近、ワンピースがかなり人気(それも大人にもかなり人気で、ワタミ会長の わたなべ美樹さんも絶賛していました)なのは、私も知っていたのですが読んだことがなく、上記の内容を拝見してワンピース及び『「ワンピース」はなぜ人の心をつかむのか』両方を読みたくなりました。


いろいろなものが、教材となり学びの対象となるものです。



2011年11月22日

大人の定義

長年、弊社と懇意にして頂いている講師で、木村政雄さん(元 吉本興業株式会社常務取締役、現 木村政雄の事務所代表兼フリープロデューサー)がいらっしゃいます。


その木村さんが編集長として月刊で発行している「5L(ファイブエル)」という雑誌がありまして、毎月木村さんがインタビューアーとして、文化人、芸能人、アスリート等にインタビューするコーナーがあるのですが、11号のインタビューで出演されていた内田 樹(うちだ たつる)さん(2009年に出版された「日本辺境論」が話題になった現在 神戸女学院大学名誉教授・武道家・思想家)が、言っていた「大人の定義」に共感したので、紹介させて頂きます。


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<木村>
内田先生の定義する大人とは、一体どういうものなのですか?


<内田>
汚れていたり、弱かったり、卑劣だったり、卑猥だったりーー


そういう部分をたくさん抱え込んでいて、それでも何とか折り合いをつけてやっている人たち。汚れていることを市民としての欠格であると思わない人たち、ということでしょうか。自分の中にある汚さや弱さを許せない人がいますよね。こういう人たちは、どうしても他人に対しても非寛容になる。結果的にそれは、外国人や障害者に対する差別、すべての人間はピュアで健全であるべきだという考え方に繋がっていきす。     


"こども"はそういう意味で危険な存在です。
大人というのは、集団からできるだけ脱落者や犠牲者が出ないように、力のあるものは力を出し、知恵のあるものは知恵を出して、気分よく共生するかたちをつくることができる人のことだと思います。


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私的に非常に納得、そう思えるコメントです。
(「いい事をうまく言う方だなぁー」と、久々に感銘を受けました)


特に「大人というのは、集団からできるだけ脱落者や犠牲者が出ないように、力のあるものは力を出し、知恵のあるものは知恵を出して、気分よく共生するかたちをつくる」というコメントは、相当奥が深いと思います。


なぜなら上記になることで、物質的にはあきらかに人間関係が平等じゃいられなくなるからです。
(そもそも平等というものは、人間の理想の世界観もしくは精神的な世界観のような気がしていて現実社会では、実在しないものだと僕は考えています。             
でもそこに何かわだかまりというか無常さを感じてしまうのですが、、、
それでも何とか折り合いをつけてますけど。。。)


では、どうすることが必要か? 


僕は、公平 と各々が思えるかたちも合わせてつくることが肝要だと思います。
(何か、内田さんがいっている「気分よく共生するかたち」とは、そういう事も含んでいるような気がしています。)


ただし、集団の人数が増えれば増える毎に公平の基準というか物差しを個々人とあわせることが、どんどん困難になりますね。
誰もが満足できる公平というものを作るってかなり至難の業だと思います。
なので、時としてこっちにあっちに折り合いをつけていかざるえない状況が発生する側面もあるかと思います。
あと、公平の仕組みって永遠ではないので時代の変化とともに変化させないといけないものだと思っています。


話は飛びますが、その辺りは徳川家康の人間社会及び国の仕組み作り(これにおいては、やはり徳川家康という人は天才、偉大ですね。古今東西、天下泰平な世の中を270年も継続できた仕組みを構築した人は家康以外存在しないのではないかと思います)と、それをひっくり返した幕末の志士の思想感を知れば、わかるかと思います。


祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ


感慨深いです。。。


2012年6月25日

縁(えにし)

「天に軌道がある如く、人それぞれに持って生まれた運命と言うものがございます」


縁とは、誠に不思議なめぐり合わせ運です。


人の一生を80歳(年)とした場合、その人と時空をともにして生きる人の数は日本のみならず全世界で計算すれば何百億人かになるかと思うのですが、そんな中で出会い、時間(コミュニケーション)を数時間(延べ)、数十時間(延べ)、数百時間(延べ)、数千時間(延べ)、数万時間(延べ)と、共にする人は恐らく数時間で2万人以下、数十時間で1万人以下、数百時間で5千人以下、数千時間で千人以下、数万時間となると100人いや30人もいないのでは?


すごい確率です。


ちなみに今、採用活動をしているのですが内定を出して一緒に仕事をするこれからの人ともすごい確率の縁だと改めて思います。


なんで、いきなりこんな事をブログしたかと言うとリクルート時代の上司かつ私を採用してくれた大恩人(私が大学4年の夏に就職活動していた時(1990年)の人事部長)が赤坂見附に最近イケてるBar(店名:真空管)をオープンしまして、何度かお邪魔しに行っているのですが久しぶりにお会いし、いろいろと話しをしている中で


「なんであの時、僕に内定をだしたんですか?」
と、聞いたら


「何か、こいつと一緒に仕事したらおもしろそうやな、って思ったからだよ。もっとも冒険ができた時代だけどな、あの時は」
と、言って頂きました。


最後の"冒険"言葉は余計(?いやいや、よくよく考えると相当に意味深いですが)僕にとっては、とても嬉しいお言葉でした。


僕も今までかつ現在の採用活動の中で、この"おもしろい人"に重点を置いてきていまして、その元上司(大恩人)も同じ観点を持っていたのかと、思うと更に嬉しく。


リクルートの面面は、かなり(多くの面積で)同じ感覚を有するなぁー という方が上にも横にも下にも多くいまして、そんな風に思っている面面ですからそれぞれがそれぞれのフィールドにいてもちょくちょく呑んだり、一緒に仕事をする機会が多数の方と多いのではないかと思っています。


ちなみに先週の金曜日にお邪魔した際に元上司(大恩人)の奥さんがいらっしゃいまして、初めてお会いし元上司(大恩人)から紹介いただき1時間程大盛り上がりの会話を2人でさせていただいたのですが、その様子を見ていた元上司(大恩人)から


「勝彦、かみさん口説くなよ」
と、言われたのですが
(そりゃー、口説く気はまったく無いのですが 50歳半ばという年齢をまったく感じさせない、ついつい引き込まれてしまう魅力ある お美しくもあり、キュートな方であることは間違えなかったです)


それを聞いた奥さんは


「もう、この鈴木君とは何年も前からお付き合いがあったような気がするのよ」


と、言っていただいたのですが その奥さんも私が入社する数年前のリクルート社員だったとのこと。


「類は友を呼ぶ」と、言いますが 縁とはそんな要素も多分にあるもんだと思ったしだいです。


今までの多くの良い人との出会いとお付き合いができている今に
天に感謝
親に感謝
ご先祖様に感謝
そして
それぞれのタイミングで出会え、今もお付合い頂いている諸先輩方に友に感謝です。



2012年8月29日

まっとうな会社であれば 理念、ビジョン、ミッション、コミットメント、あるべき姿(こうなりたい、こうあって欲しい)と、いったものがあるものです。


弊社でも「価値観の伝達」という理念のもと、ビジョン、ミッション、コミットメント、あるべき姿があります。
そして、あるべき姿の1つとして「社員に要望する業務能力」というものがあります。


これは職種によって要望する業務能力が少々違い、職位(メンバー→リーダー→マネージャー)によって職位が上がるごとに要望する業務能力がプラスされていくのですが、今この要望する業務能力の内容をさらにブラッシュUPすべく、再策定をしてます。


弊社の仕事は人間力がとても問われる仕事なのですが、今までそれを向上させていく取り組み及び仕組みを組織的に構築・計画してこなかった現状がありまして、現在取り組むことの最優先課題の一つとして、「人間力の向上」を掲げ それを要望する業務能力にも反映させ ある仕組みにも組み込み計画的にメンバーの人間力を向上させていこう と、いう意図のもとブラッシュUP再策定をおこなっている と、いったところです。


ですが、この人間力というものがかなり幅広くぺルソンは人間力というものにおいて何を定義とし、軸とし、どういう要素を大事にしていくのか? と、いうところに頭を使っています。


<人間力>
内閣府に置かれた人間力戦略研究会が2003年に報告した定義として


「人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、本報告では、社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力と定義したい。」


と、言っています。


また、人間力を高める構成要素として


1、「基礎学力(主に学校教育を通じて修得される基礎的な知的能力)」、「専門的な知識・ノウハウ」を持ち、自らそれを継続的に高めていく力。
また、それらの上に応用力として構築される「論理的思考力」、「創造力」などの知的能力的要素


2、「コミュニケーションスキル」、「リーダーシップ」、「公共心」、「規範意識」や「他者を尊重し切磋琢磨しながらお互いを高め合う力」などの社会・対人関係力的要素


3、「知的能力的要素」および「社会・対人関係力的要素」を十分に発揮するための「意欲」、「忍耐力」や「自分らしい生き方や成功を追求する力」などの自己制御的要素


を上げ、かつ 


「これらを総合的にバランス良く高めることが、人間力を高めることといえる。」


と、言っています。


参考にはなります。


ちなみに2年ほど前にこのブログで、人間力というタイトルでブログを綴ってもいました。


振り返って読んでみると フムフム 今もそう思えることを結構書いていますね。
(あの時の自分、まんざらでもないと思えますね)
そして、更に思うこと考えること ありますね。
(これが成長というものですね。2年という歳月はそれなりに人を変えます(進化させます)ね。)


そんな中、「人間力(徳)」と、いう表記を当時の私、しているのですが確かに人間力は徳と同等の意味を持っていると思っています。


では、徳 とは何か?


<人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。

徳は卓越性、有能性で、それを所持する人がそのことによって特記されるものである。
人間に備わって初めて、徳は善き特質となる。人間にとって徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものである。
これは天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となる。
徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。
徳は人間性を構成する多様な精神要素から成り立っており、気品、意志、温情、理性、忠誠、勇気、名誉、誠実、自信、謙虚、健康、楽天主義などが個々の徳目と位置付けることができる

また、儒教的徳は人間の道徳的卓越性を表し、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌・忠の実践として表される>
(wikipedia より抜粋)


そして、帝王学の金字塔 「貞観政要」 では徳についてを


一、「寛にして栗(リツ)」
二、「柔にして立」
三、「愿(ゲン)にして恭」
四、「乱にして敬」、
五、「擾(ジョウ)にして毅(キ)」
六、「直にして温」
七、「簡にして廉」
八、「剛にして塞」
九、「彊(キョウ)にして義」


の九徳として掲げています。


ひらたく言うと、、、


一、 こせこせしておらず、寛大だが厳しい。
二、 トゲトゲしくなく柔和だが、事が処理できる力を持っている。
三、まじめだが、尊大なところはなく、丁寧でつっけんどんでない。
四、事態を収拾させる力があるが威丈高ではなく、慎み深い。
五、粗暴でなくおとなしいが、毅然としている。
六、率直にものをいうが、決して冷酷なところはなく、温かい心を持っている。
七、干渉がましくなく大まかだが、全体を把握している。
八、心がたくましく、また充実している。
九、強いが無理はせず、正しい。


とのこと。
※貞観政要
唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきている


当時の唐の人は、いいこと言うもんですね。


  徳---ぺルソンとしての人間力の定義、軸、大事にする要素のおおいなる参考になります。


また、自身にとっても生きる指針となりますね。


さて、再策定業務ですが 最後の詰め へと進めます。
次回、内容は報告させていただきます。


そういえば、今日8月29日は私がリクルート時代に大変お世話になり、大好きな女性先輩 鈴木徳子(のりこ)さんの誕生日でした。(facebookで、多くの友人知人の誕生日を知ることができますね)
まさに 名は体を表す という人徳ある女性です。


本日、ブログで徳をタイトルに書いたのも 何か必然のような。。。そうでないような。。。


徳さん、誕生日おめでとうございます!


2014年1月29日

鈴木勝彦的、人生見聞思候 のお知らせ


専務ブログ「鈴木勝彦的、人生見聞思候」は過去2006年8月から2012年10月までの
ブログを掲載しておりますが、現在は終了とさせて頂いております。

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